第7話 弾けた歪
豪雨の翌日、トネリが住んでいたあのぼろっちい水車小屋は跡形もなくなっていた。
呆然としている私を横目に、トネリはその跡地をうろついていた。
「くまのぬいぐるみ、なくなっちゃった・・・・・・。」
トネリは悲しそうに呟いた。あのぬいぐるみはトネリにとって大切なものだったのだ。
大切な物を取り戻すことが叶わない時、かける言葉を私は知らない。トネリの肩をそっと抱いた。
いつかぬいぐるみを作ってあげよう。涙ぐむ彼女を見て私はそう思った。
「トネリ、うちにおいで。一緒にご飯食べよう。」
何もかも失ったトネリに、私が言えることなどそれくらいだった。トネリは私の手を握ってゆっくり頷いた。
私達は手を繋いで帰路に着いた。トネリは暫く私の家に住む事になるだろう。それはとても嬉しい事だったが、今は彼女の心のケアが必要だ。
「くまさん、とても大事にしてたの。あったかくて寝る時はいつも一緒。」
「うん。」
「私、一人ぼっちでとっても寂しくなる時があるの。でも、くまさんといる時は寂しくなかった。」
「うん。」
「親がいたらあんな気持ちになるのかな、ってたまに思う。」
「トネリ、私がいるよ。親じゃないし、くまのぬいぐるみみたいにフワフワじゃないけど。」
親の代わりは出来ないし、ぬいぐるみは返ってこないが、私にとって重要なのはトネリは一人で寂しかったということだ。
「香澄、ありがとう。香澄といると寂しくない。」
トネリは首を少し傾げて、潤んだ瞳で私を見つめた。
「ずっと一緒にいてね。」
繋いだ手に思わず力が入る。心臓の音が脳内に響く。身体が熱を帯び、どうしようもない位幸福な気持ちになる。
私はどうかしている。
トネリに惹かれている自分を否定出来ないのだ。
その感情がどういう類のものか、20年生きていれば流石に分かる。
トネリが少しだけ顔を上げた。縋るような涙目で見つめられるとおかしくなる。可愛らしいワンピースからは白い肌と少しだけ膨らんだ胸が覗く。首を横に振って正気を保つ。
同性の、しかも幼い子供に。
これから二人で暮らすことになるのだ。私としては嬉しくも恐ろしい話である。
「児玉さん、大丈夫だったみたい。暫く駐在のとこで安静にしてるって。良かったね。」
私は気持ちを落ち着かせるためにあえてトネリが聞きたくもない話をした。
「そうだね。」
トネリは表情を変えなかった。
「でも、あの人大変ね。足が不自由で苦労しているでしょうに、怪我までして。早く村を離れて、もっと社会のサポートがあるところに行くべきよ。」
トネリは何も答えない。
「駐在一人で面倒見るのも難しいでしょうし、どうするのかしらね。」
村で孤立しているであろう児玉には駐在しか頼れる人間がいないはずだ。自分やトネリが児玉の面倒を見るなんて考えられない。
冷淡かもしれないけど他人事ね、と言おうとした時だった。
「香澄は私のこと嫌いなの?」
繋いだ手を振り払ってトネリが言った。
「ずっと一緒にいるのが嫌だから無視したの?何であのお爺さんや駐在さんのことばっかり喋るの?」
トネリは身体を震わせ、目いっぱいに涙をためていた。怒りと悲しみ、そして嫉妬で苦しそうに眉を顰めながら。
私は驚きを隠せなかった。あの雨の日でもトネリは駐在に対して嫉妬の感情を見せていた。しかし、今回のはもっと強烈だ。
私はトネリを抱きしめた。
「違うわ。ごめんね。トネリと一緒で嬉しい。本当よ。幸せ。」
私は慌てて口を動かし続ける。考えてはいない。
「私もトネリとずっと一緒にいたいわ。」
口をついてしまったその言葉で、あらためて自分の中に生まれているその感情が何であるかを理解する。
好意だ。それも沼のように粘ついた独占欲を孕むタチの悪いものだ。
嵌まると抜け出せそうもない。
「本当?」
トネリが私の顔を覗き込む。まだ疑いが晴れていないことが伺える表情だ。
「本当よ。」
彼女の目を見て力強く言う。それ以外に答えようがない。気持ち程に言葉は雄弁ではないのだ。
「嘘じゃないよね?」
トネリがそっと私の身体に腕を回す。腰をきゅっと抱きしめられ、私は思わず呻いた。
心臓が高鳴る。トネリの身体の寄せ方があまりに・・・・・・。
無邪気ゆえか、無防備なのか、だが、明らかに温もりを求めている動きだ。身を捩り、体温を感じようと、匂いを感じようと、肌の質感を感じようとする動き。
無意識なのだろう。だが、それはとても煽情的だった。
「大丈夫よ。信じて。うん。そうよ。ええ。」
動揺と昂ぶりで言葉が落ち着かない私を見て、トネリはくすっと笑った。
その可愛らしさにまた心を乱される。
いっそのこと、このまま・・・・・・。
「おう、何だあ。二人で抱き合って。おしくらまんじゅうだったら俺も混ぜてくれよ。へへへへ。」
いやらしい、場違いな声だ。こんなのは一人しかいない。トネリが無表情になり、身体を離した。
「哲やん、さんですか。」
「おいおい、哲やんでいいよ。それよか、ほれ、これ嬢ちゃんのだろ。」
哲やんは大きなゴミ袋を抱えていた。その中には、トネリのぬいぐるみが入っていた。
少し汚れているが、大きな損傷もない。濁流に流されたことを考えると奇跡だ。
トネリは無表情のままだった。哲やんと目を合わせようともしない。さっきまでの花のような笑顔が嘘みたいだ。
「川辺に打ち上げられていたんよ。一応洗ったんだけどよ、まんだ汚え。でも無事見つかってよかったなあ。」
ヘラヘラと笑いながら哲やんはトネリにぬいぐるみを渡す。トネリは無表情でそれを受け取った。
「いいとこありますね。」
「おっ、惚れたか?」
「言い方を変えましょう。悪いとこだけじゃなかったんですね。」
「おいおい、ひでぇじゃない。とは言っても、これは権田が見つけたんだけどな。」
思わず声が出そうになった。トネリの表情がみるみる変わっていく。
「まあ、でもありがとうございます。」
哲やんと分かれた後、二人で無言のまま帰路についた。その間、ずっとトネリは私の手を強く握っていた。
「トネリは村の人達が嫌いなの?」
沈黙を破ったのは私だった。突然の質問にトネリは不安そうに私を見つめる。
そもそもトネリは村人達に心を許していないように見える。しかし、生きるために彼らから食べ物や生活用品をもらい、彼らの見様見真似で水などの生活資源を確保している。嫌でも共存している、というのが本心だろう。だが、トネリの村人への警戒心は異常だった。特に権田に対しては。
「何でそんな事を聞くの?」
トネリが不思議そうな顔で私を見た。
「避難所にいたくなさそうだったし。」
「それはあの人がいたから。」
それが誰かは聞くまでもなかった。
「怖いの。」
「どうして?」
「分かんない。」
「分かんないって・・・・・・。」
「分かんないの。でも、凄く嫌な気持ちになって身体が震えてくるの。涙が出て、すぐに逃げ出したくなるの。」
トネリが抱き付いてきた。私の服に顔をうずめ、震えているトネリが泣いていることは明らかだった。彼女が少しだけ顔を上げると、服が少し濡れていた。頬を真っ赤にして、情けないくらいに目を垂れさせて。ずるいくらいに可愛らしかった。
「私、この村から出たことない。香澄がいた村の外ってどんなところ?」
「村の外?どうしたの急に?」
トネリは答えずに私の胸に顔を押し付けてくる。頭がどうにかなりそうだった。
「辛いこともあるわ。楽しい事もいっぱいあるけどね。」
「でも怖くない。」
「怖くないわけじゃないけど、まあ、そうね。厳しい人とか嫌な人は多いし、危険も多いけど。でも、優しい人もいるわ。」
「この村は皆優しいよ。でも、とっても怖い。」
「優しいのに怖いの?」
無言で私に抱き付くトネリの身体が熱い。私にも熱が移っていくように身体をぐっと押し付ける。少し強めにトネリの身体を自分の方に引き寄せると小さい身体がすっぽりと収まる。柔らかくて吸い付くような瑞々しさ。
トネリに見つめられ、私は意識をとり戻す。屈託のない瞳を前に邪な気持ちを恥じた。
「トネリは人見知りなのね。」
私は誤魔化すように笑ってトネリの頭を撫でた。
「違うよ!」
いやいやをするトネリの目がたちまち潤んでいく。
「わかんないけど、凄く怖くなるの。一人ぼっちで、とても怖くなるの。」
衝動的にこの小さな少女を強く抱きしめた。そのまま彼女の柔らかい頬を両手で包み込んだ。顔を寄せると、涙に濡れた瞳が美しく輝いていた。
「私がいるわ。」
「ずっと?」
ええ、と力強く頷く。本当だよ?と強く確認を求める彼女を納得させるために。
頷き返した彼女は、身体いっぱい抱き付いてきた。
閉鎖的な空間で二人。何にも邪魔されない場所。
トネリに自分の顔をそっと近付けた。鼻が当たりそうな距離。トネリは嫌がらない。彼女がぱちっと瞬きをすると、涙のしずくが私の頬に当たった。そのまま距離を縮める。トネリは拒否しない。
彼女の小さな唇と、私のそれが重なった。柔らかく、甘い。甘美な瞬間だった。口の中に彼女の吐息の音が響くたび、脳髄が焼ききれそうになった。
ああ、おかしくなる。もう引き返せない。
唇を離すとトネリが息を切らしていた。その行為の意味をトネリは恐らく知らない。林檎のように真っ赤な顔も単なる酸欠だろう。
私は彼女が拒まない事をいい事に、もう一度口づけた。
「一緒にいるわ。好きよ。トネリ。」
好きの意味も分からなかっただろうトネリだが、私の行為と言葉から特別なものを感じてはくれたのだろう。彼女は恥ずかしそうに顔を赤らめ、私の頬に手を添えた。
それは私を受け入れた合図だった。
モラル、常識、生産性、本能、理性。
その全てがどうでもよくなるこの村で、愛すべき少女に出会ってしまった事が私を歪な欲に支配させた。
今思えば、こうなるべきではなかったかもしれない。だが、その時の私は信じられない程、幸福で、甘美で、愚かだった。
彼女の全てを知り、全てを手に入れたいと思ってしまったのだから。
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