第5話 雨の日①

 その日は朝から雨だった。

 絶え間なくざあざあと音がなり、かなり勢いよく雨が降っていることが分かる。

 裏の畑に行き、土の状態を確認する。つい最近種をもらって蒔いたばかりなので水に浸かって腐らないか心配だったのだ。水はけが良いので水没する恐れはなさそうだったが、念のためにビニールシートを被せた。

 家に戻り一息つく。今日はトネリが来て一緒に農作業をする予定だったのだが、この雨では出来そうにない。二人でゆっくりと家で過ごそう。

 しかし、暫く待ってもトネリが来ない。忘れているのだろうか。私は用意していたリンゴを齧りながらのんびりとトネリを待った。やはりトネリは来ない。

 トントン。

家の玄関を叩く音が鳴った。しかし、それがトネリでないことは明らかだ。音が荒々しい。トネリだったら恐る恐る玄関をノックし、開けるとひょこっと顔を覗かせる。

 玄関にいたのは橋じいだった。

「よお香澄ちゃん、今日はよく降りそうだわ。土砂崩れがあったらいかんで今から集会所に避難するべえ。」

 集会所は村の真ん中にある。集会所と言っても少し大きいだけの普通の民家だ。

「トネリを待っているんです。」

「だったら迎えに行った方がはええな。途中で会うかもしれねえし。」

 橋じいと私はトネリの住む村はずれの水車小屋に向かった。雨は相変わらず強く降っている。権田からもらった軸が錆びた黒傘が慌ただしく水を弾いている。

 急に不安になった。

 トネリの家は川沿いだ。川が増水していないだろうか。

 そう思い始めると勝手に足早になる。

 トネリの家まで着くと、ボロボロの家が目に入った。建物が流されてはいないらしい。しかし、川の水は勢いが増しており、傍から見ても危険だった。

 増水の恐れがある時に川や海に近づくな、と言われていたがトネリの事を思うと関係なかった。川に落ちないように慎重に近づき、トネリの家に入る。

「トネリ!大丈夫?」

 家に入るなり叫んだ。しかし、トネリの姿は見えない。

 部屋の奥にある布団が大きく盛り上がっている。トネリとぬいぐるみなのは明らかだ。まだ寝ているのだろうか?私は慌てて駆け寄った。

 トネリに声を掛けながら身体を揺すったが布団から出てこない。布団の中からトネリのうめき声が聞こえた。恐る恐る布団を剥ぎ取る。

 トネリはぬいぐるみを抱えながら泣いていた。身体を丸め、顔をぬいぐるみに埋め、身体を震わせながら嗚咽を漏らしていた。

「もう大丈夫よ。ここは危ないから逃げましょう。」

 私はトネリの小さな身体を抱き寄せて、背中をゆっくり擦りながら言った。

「香澄・・・?」

 トネリは意識を取り戻したようにはっと顔を上げて私を見つめた。

「おーい、早く避難するぞ!」

 橋じいの声が聞こえた。打ち付ける雨音にも負けない大声だ。

「行こう、トネリ。」

 私は、ぼんやりとした表情のトネリをおんぶし、外に出た。既に川が溢れ始めている。もっと時間が経てばトネリの家も流されてしまいそうだ。

「トネリ、傘持って。」

 私の背中でぐったりとしているトネリに傘を渡すと、力を込めて道を駆け上がる。橋じいのいる坂の上まで上がれば、とりあえず川に流される恐れはない。

私はとりあえずほっとした。

 トネリは私に身体を預けている。集会所に行くまでの間、何度か話しかけたが、「うん」と力なく答えるだけでそれ以上の反応はなかった。


 集会所に着くと、人で溢れていた。それほど広くないと思っていたが、村の人間30人程度が何とか収まっていた。

 私は和室の一角を譲ってもらうと、座布団に座りこみ、トネリを後ろから抱っこした。雨をふき取るバスタオルを頭から被り、トネリと一緒に包まっていると、村人達の騒々しさも気にならない。

 トネリは震えていた。顔をそっと撫でると、もう涙は流していなかったが、顔を上げようとはしなかった。

「大丈夫?」

 私はトネリの頭を撫でながら優しく尋ねる。

「ぬいぐるみ・・・。」

 トネリがぽつりと呟いた。

「熊のぬいぐるみ?」

「置いてきちゃった・・・。」

「うん、雨が止んだら取りにいこうね。」

 そう囁きながら優しく抱きしめると少し落ち着いたらしく、私に身体を預けた。

 トネリの身体は体温が高いのか、いつも温かい。柔らかく、いつまでも抱っこしていたくなる。

 しかし、そんな至福の時は長く続かない。

「香澄さんとトネリもいます。」

 権田の声だ。トネリの身体が一気に強張る。アレルギー反応のように全身が総毛立っていた。私はトネリの脇腹をぽんぽんと優しく撫でて落ち着かせようとした。

 周囲を見回す。権田も哲やんも金田もいる。源さんと幸田さんもいた。腰は曲がっていない。

「全員避難したか?」

「スミ婆さんと駐在がいねえ。」

「スミ婆さんとこは大丈夫だろ。駐在は放っとけ。役人の癖に逃げ遅れるバカいるかよ。」

 駐在はこの場にいないようだ。スミ婆さんと言うのは村はずれに住むどぶろくを作っている女性だ。

 雨は全く止む気配はない。私とトネリは毛布に包まったままじっとしていた。トネリはまだ緊張していたものの眠たくなってきたらしく、しきりに目を擦っている。

 無言でトネリを抱き寄せる。体温の高いトネリの身体に包まれているようで心地よかった。そのまま目を瞑るとトネリと一緒に夢の中に落ちていく感覚を覚えた。


 腕の中のトネリが身を捩らせた。目が覚めたらしい。私もその動きで意識を取り戻す。トネリはぼんやりとした目で私の顔を見ると少し照れたように俯いた。

「落ち着いた?」

 トネリの頭をゆっくりと撫でてあげると、こくりと頷いた。

「怖かったのかな。」

 トネリは頭を横に振った。否定というより嫌な事を忘れようとしている仕草だった。

 何があったのか聞きたかったが、トネリが辛そうだったので、黙ってトネリを抱きしめた。トネリが身を委ねてくれるのが嬉しかった。

 急に部屋の中が騒々しくなった。村人数人が玄関のあたりに固まって何事か騒いでいる。

その中心には駐在がいた。

「そいつは村のもんか?」

「そうだ。」

「俺達は知らねえが、足の悪い奴はここにはいねえ。」

「畜生!」

 駐在は怒鳴り散らし、そのまま外に出ていった。

「何かあったんですか?」

呆れた顔で首を傾げる橋じいに恐る恐る尋ねた。

「おお、香澄ちゃん。寝てていいんだぜ。何かあのアホが村人が一人見つからないとか騒いでるんだけどよ。村のもんは皆集会所に避難してんだよ。足が悪い爺さんらしいんだけどよ。そんな奴、誰も見たことねえよ。」

 それが児玉の事だとすぐに分かった。

 見たことない?余所者の私ですら知っているのに。

 私は児玉の事を誰かに聞きたかったが、権田の家で酒盛りをした時の橋じい達の反応を思い出し、口にするのを止めた。

 何はともあれこの悪天候の中で見つからないのは心配だ。

「大丈夫かしらね。児玉さん。」

 私は呟いた。トネリにだけ聞こえるように。

「児玉さんってあのお爺さん?」

 トネリが私の顔を見て返した。不思議そうな顔をしている。

「そうよ。毛むくじゃらの。足が少し不自由だから心配ね。トネリは児玉さんの事を知ってるの?」

 トネリは頷いた。私は意図的に呟いたのだが、トネリが橋じい達と同じ反応をしたらどうしようと不安だったので、トネリが児玉の事を知っていて安心した。

「あの人、苦手なの。」

 トネリはまた私に身体を寄せた。いいのだろうか、と変な気持ちになった。

「いつも変な事ばっかり聞いてくる。気持ち悪くなったことはないか、とか権田って人をどう思う?とか・・・・。」

 トネリが珍しく強い口調で言った。確かに変な質問だ。何を考えてそんな事を聞くのだろうか。

「あと、お母さんの事を覚えているか、とか。」

 トネリが嫌そうに言った。

「覚えてるの?」

「覚えてないよ。」

 トネリは私の手を握ってきた。小さくて暖かい手にぎゅっと指を絡めとられる。トネリが小さかったから、思い出したくても思い出せないのかもしれない。 

 雨が降り注いていた。勢いが衰えることがない。少し嫌な予感がしていた。

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