回想 一

 かつて、彼は優秀な遺伝子工学の専門家だった。周囲からの人望も厚く、順調に出世の階段を駆け上っていた。しかし、まっすぐに伸びていた将来への道は突如いばらの道に変貌する。


 ある朝、いつものように電車に揺られていると、駅に着いた瞬間、突然右手をねじり上げられた。「痴漢」という叫びが、車内にこだました。

 

 それが派閥争いの果てに仕組まれた罠だったことを知るのはずっと後のことである。このときはまさかそんなこととは夢にも思わず、自分の潔白を証明するのに躍起になっていた。だが、言葉を重ねれば重ねるほど、疑いの目は濃くなるばかりだった。結局、無実を証明することができず、噂はあっという間に研究所内に広まった。保釈金によって刑務所入りは免れたものの、彼が帰るべき場所はすでになかった。妻との関係もこの一件で修復できないほど溝が深まっており、彼は40歳を目前にして、家庭と職を失った。


 その男が現れたのは、それから半年後のことだった。当時彼は、職に就かず毎日を虚ろに過ごしていた。慰謝料を払ったあとの残り少ない財産を切り崩しながら、パチスロに通う日々が続いていた。病院に勤めていたころの精彩を失い、まばらな無精ひげが彼が落ち目であることを物語っていた。


 男は、何の前触れもなく彼のマンションを訪ねてきた。普通はもっと偶然を装って近づいてきそうなものだが、後で男が言うには「あなたは絶対に、私たちと行動をともにすると思いましたから」とのことだった。


 マンションの玄関先で、男は「私たちの研究所で一緒に働いてほしい」と言った。名刺に書かれた会社名を見ると、最近急速に業績を伸ばしている創薬ベンチャー企業だった。


 名刺を見て怪訝な顔をしていると、男は「弊社のことはご存知のようですね。それでしたら話は早い」と言った。突然の訪問自体が胡散臭いことに変わりはないが、自分の技術を目の前の男がどう使おうと考えているのか、話を聞いてみようという気になった。研究畑の人間と久々に会話を交わすことにかすかな喜びを感じていたことも事実だった。


 男は戌井と名乗った。研究分野は遺伝子操作。クローン技術を専門に研究していると言った。

「クローン技術ね……俺みたいにドロップアウトした人間に声をかけるところを見ると、どうせろくな研究じゃないんだろう」

 自嘲気味に問うと、戌井は黙ってかぶりを振った。


「研究内容をどう評価するかは、歴史が決めることでしょう。少なくとも私は、信念を持ってやっている。それにあまり大きな声では言えないが、私どもの研究所では、そこらの病院や大学では絶対にできないような研究もできるんです」

「そういえば、同じ名前の会社がアメリカにあったな。小児の臓器培養で何年か前に問題になっていた記憶がある。あんたらのところと関係があるのか?」

「よくご存知ですね。あれも私どもの研究の一部です。私たちは世界各地で、ああいった研究を進めている。あなたにも、ぜひ協力してほしい」

「話がきな臭くなってきたな。要は違法な研究をしているってことだろう? それで俺のところに来たってことか」

「気を悪くなさらないでください。私たちには、あなたの技術が必要なんです。それなりのポストも用意してありますし、不自由はさせないつもりです」

「いくら何でも話が急すぎる。大体、何をしたいのか分らんが俺は怪しい研究に手を染めるつもりはない」

「もちろん、今すぐにとは私も考えていませんし、あなたの意思は極力尊重するつもりです。できれば一度、私たちの研究所を見てほしい」


 ところで、今日はいいものを持ってきたんですと、戌井はスーツの内ポケットから封筒を取り出した。開けてみてくださいと言われ、彼は不審に思いながらも封を切った。中に入っていたのは、一枚の写真だった。成人の男女が、ラブホテルから出てきたところを隠し撮りしたものだった。どちらも、見覚えのある顔だった。男のほうは前に務めていた病院の同僚、そして女のほうは……。


「俺に痴漢の濡れ衣を着せた女だ」

 あのときの屈辱を思い返し、思わず握った拳が震えた。この女のせいで、自分の人生は一気に狂ってしまったのだ。だが、なぜ同僚と一緒に写真に写っているんだ?

「男性のほうにも見覚えがあるようですね」

「……俺ははめられたのか?」

 彼がそう言うと、戌井はフッとため息をついた。


「こればかりは本人に問いたださないと分かりませんが、その可能性は高いでしょうね。そこに写っている男性は、あなたが病院を去った後、重要なポストについている。そしてこの2人は、かなり前から関係を持っていたようです」


 当時の記憶が、まざまざとよみがえる。派閥争いは彼の望むところではなかった。だが、彼の意思とは裏腹に、どろどろした人間関係は彼の神経をすり減らしていった。そして例の痴漢騒動だ。もしこれが罠だったのだったとしたら。妻に逃げられ、落ちるところまで落ちた自分の境遇がこれまで以上に惨めに感じられ、怒りが胸を刺した。


「なんであんたがこんな写真を持っているんだ?」

「そうですね、疑問に思うのはもっともです。さっきも言ったように、私たちの組織は世界各地に広がっている。そしてあらゆるネットワークを駆使して、情報収集につとめている。この程度のことは簡単なことなんですよ」

「答えになっていない、なぜ俺とこいつらのつながりをあんたらが知っているんだ」

「あなたの周囲を探っていたら、簡単にこの2人にたどり着きましたよ。日本は監視社会ですからね、こういう写真を探すのも難しいことではない。私はあなたが必要としているものを用意してきたにすぎない」

「俺が必要としているもの?」

「ええ。今まで目をつぶってしまっていたようですが」

 一呼吸おいて、男は言葉を続けた。

「あなたが必要としているもの、それは真実ですよ。私たちは、それをいくらでも提供できる」

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