二十日目
昨日の会話を思い出そうとしたが、肝心なところに靄がかかっていた。数日前に、液晶ディスプレイを通じて男と話し、食事をし、そこから先の記憶が抜け落ちている。毒を盛られたのだと思っていたが、どうやら自分はまだ生きているらしい。
舌で口の中を探り、そのあと指を突っ込んでもう一度探ってみる。歯はすべて抜け落ちていた。いつの間にか、爪もすべてなくなっている。粘液のせいか、指紋も見えない。心なしか、指が短くなったような気もする。いよいよ人間離れしてきたな。そのうち指も腕もなくなって、ただの肉塊と化すのだろうか。自分の末路を思うと、暗澹たる気持ちになる。あの男への憎しみだけが、彼を現世につなぎとめていた。
壁に目をやり、「またか」と彼はつぶやいた。床から上に向かって、3メートルほどの高さまで光沢が続いている。あの高さまで、無意識のうちに這い登っていたということだ。
壁に手を置き、光沢に体を重ねる。一度目を閉じ、深呼吸をしてから彼は上へ上へと、体を這わせた。ゆっくりではあるが、足が地面を離れ、じりじりと上へ登っていく。換気口でもあれば、ここから逃げ出せるかもしれない。そんなことを考えながら、彼は一心に天井を目指した。
壁を登るのは、予想以上に集中力を要した。体力がなくなっているのかもしれないし、そもそもこの体でロッククライミングの真似事をするのだから、簡単にいくわけがなかった。だが、皮肉なことに両方の掌を覆う粘液は確実に壁を捉え、腹と足はぴたっと壁にくっついたまま離れなかった。一度壁にくっついた体の部位を引き剥がすのは困難を極め、自然と匍匐前進のように壁を這う形になる。
こんなことを、無意識のうちに毎夜毎夜繰り返していたのだろうか。それとも、やらされていたのか? いずれにせよ、気持ちのいい話ではなかった。そんなことを考えているうちに、あと少しで壁に残った光沢の一番上に手が届きそうな距離まで辿り着いた。
バランスを崩して落下しないように、一度背後を振り返る。扉とディスプレイが対向面の眼下に見え、ちょうど視線と平行な位置にデジタルの掛け時計があった。再び天井を見るが、まだまだ先は見えない。壁に据え付けられた蛍光灯は真下にしか照射しないらしく、真っ黒な闇が頭上に延々と続いていた。
そのまま上を目指そうと壁に向かい合ったとき、背後から空気が勢いよく漏れる音が聞こえた。換気扇か何かだろうか? 気になって背後を見ようとした瞬間、急に眩暈に襲われ、彼はそのまま落下した。
「またか、しつこいやつだな」
「仕方ないだろう、きっと本能なんだよ」
「壁を這い登る本能ね。本当に気味が悪いな」
「まぁそう言うなよ、貴重な実験体なんだ」
「それにしても、あの高さから落ちて怪我ひとつしていないっていうのはすごいね」
「そういう体になっているのさ。全身を脂肪のクッションで覆われているようなものだ。触ってみればわかる」
「遠慮しておくよ。正直なところ、こいつらには近づきたくもない」
「案外この体のほうが快適かもしれないけどね。どこでも生きていける」
「女が寄り付かないだろう」
「ははは、確かにね。でも、ある意味女も必要ない体だからな」
「そう考えるとあらためてぞっとするな」
「いずれ骨が退化して立ち上がることさえできなくなるだろう。あるいは……」
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