二十一日目

 全身に鈍い痛みを感じながら彼は目覚めた。ここに閉じ込められてから3週間がたつ。あれから液晶ディスプレイに男があらわれることはなくなったが、その代わりに夢なのか幻聴なのか、おかしな会話をたびたび聞くようになった。


 あれは現実の会話なのだろうか。自分をめぐっての会話なのか? だとしたら……断片的に覚えている数々の単語は、彼を絶望的な気持ちにさせた。何が起こったのかははっきりと覚えている。壁を登っている最中に、背後から何かを吹き付けられた。そして気を失ったのだ。きっとその前日も同じことをしたのだろう。記憶が飛んでいるのは、落ちたときに頭を打ち付けたからだろうか。


 あのとき後ろの壁から吹き付けられたのは睡眠ガスか何かだろう。これまでも、そのせいで自分は眠らされていたのだ。ガスを部屋に充満させ、気を失ったところで治療なり実験なりが行われていたのだ。


「ふざやがって……」彼は忌々しげに毒づいた。あの男を問い詰めてやりたい。「どうして姿を見せないんだ、そんなに俺が怖いのか?」口に出して言ってみたが、むなしさだけが残った。


 それにしても、なぜここ数日、眠っている間の会話を聞き取れるようになったのだろうか。体が睡眠ガスに慣れてきたのだろうか? 昨日も体を動かすことはできなかったし目も開けられなかったが、意識だけははっきりしていた。気を失ったのは確かだが、それもわずかな時間に違いない。


 意識を集中すれば、床に寝転がった状態でもガスが流れる音を聞き取ることができるかもしれない。その瞬間さえ分かれば、呼吸を止めてやり過ごせないだろうか。そこまで考えて、彼は首を振った。いつそれが起こるかも分からないのに、一日中全神経を聴覚に集中させるなんて、できるはずがない。腹の虫が聞こえるのがおちだろう。そういえば、あれから食事が運ばれることもなくなった。意識していなければなんともないのに、食事のことを考えたら急に胃袋が締め付けられるような気持ちになった。


 食事が運ばれるかわりに観葉植物の大きな鉢が置かれるようになった。毎日変えられているようだが、何の意味があるのだろうか。いずれにせよ、植物を見て気持ちが和むのはありがたいことだった。最初は何か毒虫がついていないか、盗聴器でもしかけられていないかと気になったが、そんなことをせずとも自分の生殺与奪件は相手に握られていることを考えると、逆に気が楽になって植物を愛でる余裕が生まれた。


 あの男が再び現れてくれれば、何か突破口が見出せるかもしれない。彼はそう思った。それとも、植物が運ばれるそのときを狙おうか? 壁を這い登るのはしばらくやめにしよう。これまでは大きな怪我をせずにすんでいるが、次も無事だという保証はない。


 昨日聞き取った会話のなかで、「退化して立ち上がれなくなる」「女を必要としない体」という言葉が記憶に残っていた。あれはいったい何を意味するのだろうか。べとつく手で、太ももの筋肉をまさぐってみる。立ち上がって片足でバランスをとってみる。確かにフラフラして気を抜けば倒れてしまいそうだが、それは体力を失っているからだろう。それとも、そのうち本当に歩けなくなるのだろうか。壁を這ったように、床を這い回る日がいつか来るのか? それは考えるだけでも、おぞましい光景だった。


 次に彼は、股間に手をやった。服を着ていないから、性器もむき出しになっている。そういえば、ずっとトイレに行っていない。気を失っている間に処理されているのか、それとも何も食べていないから出す必要がないのか。監視カメラで見られているのは分かっていたが、彼は目を閉じて、性器をいじってみた。微かに熱を帯びるが、隆起するまではいかない。体力の衰えとともに、性欲も失いつつあるのだろう。「女を必要としない体」というのはこのことなのだろうか。


 しばらく様子を見たほうがいいかもしれない。ガスで眠らされたすぐ後に、自分の意識が戻っていることに彼らは気づいていないだろう。だったら寝たふりをしながら聞き耳を立てて、逃げ出すヒントを見つけたほうがよさそうだ。


 だが……そんな悠長なことを考えていていいのだろうか。「退化」という言葉が再び頭をよぎる。確かに自分の体は、どんどん人間らしくなくなっていく。見た目も、中身もだ。急がないと、手遅れになるのではないだろうか。今動いたから間に合うという確証は何もないが、もしかしたらそのうちに、考える力さえ失うことになるかもしれないではないか。


 彼は久しぶりにベッドの上に寝転がり、腹ばいになった。真新しいシーツに交換されていたが、上に乗るやいなや粘液が真っ白なシーツに巨大な染みをつくる。


 腹ばいになり、枕に顔を押し付けた。枕カバーも同じように、粘液に染まっていく。


「これでいいんだ」彼は不愉快な気持ちを抑えつけながらそう思った。そうして、どこに設置されているかわからないが、監視カメラに移らないように枕カバーを口にくわえた。自分の粘液を口に含むのには抵抗があったが、そんなことは言っていられない。


 これで部屋の中にガスが充満しても、しばらくはしのげるはずだ。少しでも意識が飛びそうになったら、息を止めればいい。ちょっとでもガスを吸い込む量を少なくできれば、やつらが部屋に入ってきたときに何かしら対抗できるはずだ。彼は息を殺して、そのときをじっと待った。時折耳に意識を集中させ、空気の流れに変化がないかを確認しようとした。廊下に足音がしないか耳をそばだてた。気の遠くなるような長い時間を、彼はそうやって過ごした。




 変化に気付いたのは、それから2時間後だった。微かにだが、扉の向こうに、人が近づいてくる気配を感じた。その次に、頭上から空気が漏れる音を聞いた。まだ大丈夫だ、まだ大丈夫だ、彼はそう自分を鼓舞しながら、ガスが床まで降りてくるのを待った。そして湿った枕カバーを力強く噛み締め、時間が過ぎるのを待った。


 ガスが流れてくるまでの2時間より長く感じられた。やがて体に異変を感じ、意識が遠ざかりそうになるのを懸命にこらえながら意を決して息を止めた。どれだけ我慢できるかは分からないが、この機会を逸したら、次はないような気がしていた。




 結局、彼は意識を失った。呼吸を止めるのにも限界があったのだろう。耐えられなくなって思いっきりガスを吸い込んでしまったようだったが、そのときには部屋の換気扇が回り、もうガスが薄れていたらしい。彼は誰かが近づいてくる気配をぼんやりと感じ、指先が動くのを確認してから目を閉じた。このまま多少眠りについたとしても、すぐに目が覚め、体を動かせるはずだという確信があった。




 左腕にバンドを巻かれ、しばらくしてから注射を打たれた。彼は夢うつつの状態で、それを感じていた。まだまぶたは開けていない。時折まぶたを透かして強い光が眼球に飛び込んでくるのは、フラッシュをたいて撮影しているからだろうか。


 話し声から察するに3人いるらしい。2人は昨日おとといと同じ人物だろう。もう1人はカメラマンだろうか? 自分を見世物にするつもりなのだと思うと、怒りが込み上げてくる。


「所長、そのくらいにしておきましょうよ。どうせずっと監視カメラで撮影しているんですから」

「そうはいっても君、これは歴史を変える一体なんだよ。我々には、彼を記録する義務がある」

「だからってカメラで撮影しなくても」

「わかってないな、君は。こうやってファインダーをのぞくことで、新たに見えてくるものがあるかもしれないじゃないか」


 所長と呼ばれる男の声には、聞き覚えがあった。ディスプレイを通して彼を嘲笑った、あの男に間違いない。彼は今にも目を開けて確かめたいのをぐっとこらえて、気づかないふりをしていた。


「それにしても、驚くほど順調だな。ここからが見ものだぞ」

「そうでしょうね。この調子でいけば、あと半月もすれば……」

「どれ、ちょっと触診してみようか」

 カメラのフラッシュ音がやむと、3人のうちの1人がゆっくりと近づいてきた。その歩調には緊張感が感じられた。すり足で歩いているのか、床と靴がこすれあう音が聞こえる。


 うまくタイミングを合わせれば、こいつを人質にとれるんじゃないか? そんな考えにとらわれ、呼吸が荒くなるのを必死に自制した。まだだ、まだ様子を見なくては。


 そうこうするうちに、触診が始まった。腕をもみ、肩を軽く叩き、脇腹の肉を引っ張る。粘液が手袋に絡まるのか、時折「おおっ」と声をあげたり、舌打ちをしたりを繰り返した。


「餌はちゃんと与えているんだろうな?」

「ええ、よく食べていますよ。毎日残さず」


 何のことだ? 彼は自分の耳を疑った。毒を盛られて以来、食事を口にするどころか食べ物が運び込まれたことすらなかったはずだ。意識を失っている間に、流動食か何かを無理矢理詰め込まれているということだろうか。


「髪を失い、歯を失い、爪を失い……生まれたての赤ん坊のような状態だな。やつらに比べればまだましなのかもしれないが。ところで、面白い報告があったね」

「再生ですね?」

「そうだ。彼がこぶしを怪我したとき、皮が裂け、血が流れていたにもかかわらず、翌日には傷がふさがっていた。この世界で生きていくための、ひとつの進化の形だろう。これは他の個体では見られなかった現象だ」

「案外、粘液も外気への耐性を高めるためのものかもしれませんね」

「そうだな。われわれ人間が持ち得ない機能を持っているわけだ。それじゃあ、実験を始めようか」

「実験? そんな予定は……」

「まぁまぁ、固いことは言わずに。どのくらいの再生能力を持っているのか、試してみたくはないかね?」


 こいつは何を言っているんだ? 目を開けられないせいで、不安だけが募っていく。


「こいつの腕を押さえておいてくれ。まぁ死なない程度に、ひじから先を切り落としてみようじゃないか」

 心拍数が跳ね上がるのが分かった。恐怖で体が痙攣しそうになる。本気で言っているのか? 俺を殺すつもりなのか?


 ためらいがちに助手らしき男が近づき、彼の腕を押さえつけた。

「暴れるかもしれん、足も押さえておけ」

「所長、やばいですよ。ばれたらただじゃ済まないですって」

「何を心配する必要があるというんだ。放っておいてもなくなるものを、貴重なデータ採取のために有効利用しようというんだ。いいことじゃないか」

「しかし、ショックで死なれでもしたら」

「実験体なんて探せばいくらでもいるんだ。死んだってかまわんだろう。そら、行くぞ」


 騒然とした雰囲気の中で、鋭利な刃物が腕に触れる感触があった。もう我慢できない、彼は思わず目を開け、体をよじった。


 助手が驚いて後ずさるのをしり目に、自分の腕がつながっていることを確認しようとした。血は出ていない。間に合ったらしい。所長の手にした刃物が目に入る。刃物?


 所長が持っていたのは、ただのA4のノートだった。背の部分が湿っている。まさか、これを押しあてただけだったのか?


周りを見渡すと、宇宙服のような格好の人間が2人、彼を見つめていた。2人しかいない……。ノートを持っていたのは、所長ではなかった。


「ようやく目覚めたね、グレーゴル君」

 頭上から声が聞こえる。液晶ディスプレイだ。だまされていたことに、彼はようやく気づいた。最初から、この部屋には自分のほかに2人しかいなかったのだ。


「グレーゴル?」

「ああ、君のコードネームだよ。知らないかな? カフカの小説の登場人物さ。君とそっくりな境遇でね。一度読んでみるといい」


 また俺はこいつにもてあそばれているのか? 真っ黒な怒りがむくむくと胸中に広がった。背を起こし、ベッドの上に胡坐になって所長と向かい合う。所長の目には、喜色が浮かんでいた。


「何のまねなんだ、さっきのは。すべてわかっていたのか?」

「毎日君を観察し、データを取っているんだ。些細な変化でもすぐに気付くよ。本当は現場に足を運んで、君の反応を直接確かめたかったが」

「忘れないぞ、あんたはこのあいだ俺に毒を盛った。俺をからかって、いたぶって楽しんでいるんだろう?」

「やれやれ、また勘違いをしているみたいだね。確かにあのとき食事に薬は入っていたが、あれは毒なんかじゃない。正真正銘、あのときの君に必要だった薬なんだよ」

「あのときあんたは、俺が回復していると言ったじゃないか。でも結果はどうだ? 歯は抜け、爪もはがれた。この鬱陶しい粘液もあれから一向になくならない。これでどこが回復してるっていうんだ」


「説明しても分からないかもしれないが……」

所長は眉をひそめて言った。

「私が考える回復には二通りある。ひとつは人間としての回復、もうひとつは生物としての回復だ」

 何を言っているんだ? 所長の言葉に戸惑いながら、彼は自分の指が通常通り動くことを確認していた。


「はっきり言うが、人間はもうおしまいだ。この世界に適応していくのは難しい。それでも我々は、適応する術を見つけなくてはならない。その結果が、君の姿なのだよ」

「あのとき言ってた、世界の終わりってやつか? そんなものを信じるとでも思ってるのかよ」

「相変わらずだなぁ、君は。もう少し他人のことを信用したほうがいい」

「俺をだまして毒を盛ったくせに偉そうなことを言うな」


「……堂々巡りだな。きりがない。現実を見せてやりたいところだが」

 所長はそう言って、「眠らせなさい」と部下に命じた。その言葉に反応して、宇宙服姿の男たちが近づいてくる。ものものしい装備を見るだけでも、自分がただならぬ状態にあるということが伝わってくる。彼は観念して目を閉じた。器具がカチャカチャと音を立て、腕をつかまれる。その瞬間、彼は口に含んでいた粘液を相手の顔めがけて吹きかけた。


 視界を覆われて、相手は無惨に慌てふためいた。ゴム手袋で粘液を拭おうとするが、汚れは取れない。頭にかぶった巨大なヘルメットのようなものも、感染の恐れから脱ぐわけにはいかないのだろう。彼は冷静に相手の反応を見つめながら、ベッドから立ち上がった。からっぽの注射器をつかみ、自分の腕に突き立てる。そして粘液にまみれた針の尖端を、もう一人の宇宙服に向けて突き出した。相手は異形のものを見るような表情で立ち尽くしていた。

「どけよ。感染したいのか?」

 不服そうに道を開けるのを見届け、顔を押さえてうめく声を背中に彼はドアを開いた。所長が笑いながら拍手している音がかすかに聞こえた。




 軋みをあげて、重いドアが開く。ついに彼は、密室から脱出することに成功した。扉は二重構造になっており、扉と扉の間の狭い空間は、壁のあちこちに穴があいていた。除菌装置かなにかだろう。機械が作動することはなく、次の扉も難なく開けることができた。廊下に出ると、等間隔にドアが並んでいる。彼と同じように、誰かが閉じ込められているのかもしれなかった。


 この先どうなるかは分からない。自分のこの体では、逃げ切ることは難しいだろう。それでも彼は、何としても部屋から出て外の世界を見たかった。重い足を引きずって、体を引きずるように廊下を進んだ。


 背中越しに、ドアが開く音が聞こえる。研究員たちが追いかけようとしているのだろう。思うように動かない自分の両足がもどかしく、気持ちばかりが前へ前へ行こうとする。壁に手をついて体を支えながら、いざとなったらどこかの部屋に逃げ込もうと彼は思った。


 急いでいるつもりでも、彼の歩みは赤ん坊の這い歩きのように遅く、つかまるのは時間の問題だと思われた。だが、相手との距離は一向に縮まらない。彼の逃亡を見逃そうとしているかのようだった。


 やつらにとっては、これも実験のひとつなのかもしれない。だとすれば、逃げ切れる可能性も残されているかもしれない。行き当たりばったりでここまで来てしまったが、一縷の希望に彼はしがみつこうとしていた。


 ただ前へ。いつしか彼は歩くのをやめて、四つんばいになって地面を這っていた。彼の這った後には粘液が道をつくり、どこに隠れても意味がなかった。そのことに思い至る余裕もなく、彼は見えない出口を目指した。


 そうして彼は、長い時間をかけて廊下の突き当たりまでたどり着いた。あっという間のように本人には感じられたが、実際にはいつ誰と出くわしてもおかしくないくらいの時間が過ぎていた。まるで最初から彼の逃亡が予測されていたかのように、構内に人の姿は見当たらず、彼と、その後ろをついてくる2人の研究員だけが存在していた。


 道は左右に分かれている。彼は迷わず、右手を選んだ。特に深い考えがあったわけではなく、それこそ本能の導くままに選んだ道筋だった。この先に希望の光があるなどと、そんな甘いことは頭になかった。どんな結末だってかまわない、ただ先へと進みたかった。


 密室に閉じ込められて以来、初めて彼はのどの渇きを感じていた。あの部屋と違い、廊下は湿度が低いらしい。これまで自ら水分補給をしたことがなかったことに、あらためて彼は気付いた。彼の体は常に粘液を分泌し続けている。このままいけば、干からびてしまうのではないかとそんな懸念が頭をよぎった。


 どこかで水分を補給しなくては……そう思いながら、彼は這い進んだ。目の前には、鉄の扉がいくつも並んでいる。その中に人がいるのか、それとも何かの設備があるのか分からないが、いずれどれかの扉を選択せねばならなかった。廊下は眼前に果てもなく延びており、このまま進んでいけば干からびることは間違いないように思われた。そのくらい、のどの渇きは深刻だった。


 後ろからは、ヒタヒタと足音が聞こえる。やつらが自分の後を追いかけているのだろう。手ぶらで部屋を飛び出したのは失敗だった。やつらのことだ、拳銃くらい持っていてもおかしくなかったのだ。武器さえあれば、彼の立ち位置もだいぶ変わっていたはずだった。


 それでも、彼は後ろを振り向くことをしなかった。もしかしたら、やつらは銃のを構えて、自分の背中に照準を合わせているかもしれない。そのときはそのときだと、彼は半ばやけっぱちな気持ちで前を目指した。


 息が切れ、目眩がする。のどの渇きも耐えがたく、彼は肉体の限界を感じていた。両手両足が思うように動かないのがもどかしい。しかし彼の神経はかつてないほど鋭敏に、周囲の気配を感じ取ろうとしていた。目は半分ふさがっていたが、嗅覚と聴覚は研ぎ澄まされ、両側の壁に並ぶ扉の向こうの気配を察知しようとしていた。


 空気の流れがわずかに変化したことに気付いて、彼は歩みを止めた。左手の扉の隙間から、風がかすかにもれてくる。強い湿気混じりの、生臭い風だった。ゆっくりを首をもたげて前方を見やってから、彼は意を決してその扉のほうに体の向きを変えた。ドアを開くためには、立ち上がらなければならない。全身に力を込め、胸や腹から粘液が大きく糸を引くのを見ながら、彼はなんとか扉に寄りかかりながら立ち上がった。二本足で立つことさえ、困難な状況だった。


 扉の取っ手に手をかけて、彼は初めて、来た道を振り返ってみた。ずっと奥から、光の帯が続いている。彼の粘液の後だった。研究員たちの姿は見当たらなかった。追跡をあきらめたのだろうか。いずれにせよ、先に進むためにはこの扉を開かなければならない。そんな確信があった。


 力を込めて取っ手を回し、彼は扉を開けた。途端になんとも言えぬ悪臭が鼻をついた。扉の向こうにはもう一枚ガラスの壁があり、パーテーションのように部屋の内部と外部とを区切っているらしかった。ガラスはぼんやりと曇っており、中の様子は一瞥しただけでは分からなかった。


 茶色い物体が、部屋のあちこちに転がっていた。一見しただけではそれが物体なのか染みなのかも分からなかった。壁にも同じような茶色いものが見て取れた。彼は一歩近づいて、ガラスに顔を近づけた。


 それら茶色の物体は、ゆっくりと移動していた。やはり染みではなく、物体なのだった。それ以上のことは、曇ったガラスを通してでは分からない。湿り気を帯びた風だけが、どこからかガラスと壁の隙間から漂ってきた。


 目の前に広がる予想外の光景に目を奪われていると、不意に機械の作動音が聞こえ、ガラスの曇りが晴れて内部の光景が浮かび上がってきた。


 床や壁に点在していた茶色い物体は、彼と同じくらいの背丈の異様な生物だった。四肢がなく、茶色い胴体の先端、頭の部分からは二本の突起が伸びていた。体中を粘液に覆われ、ゆっくりと移動を続けていた。彼は吐き気をもよおし、胃液をその場に吐き出した。


 それは巨大なナメクジだった。触覚を前後にぴくぴくと動かし、でっぷりと肥え太った胴体を左右にねじり、伸縮させながら地を這い、壁を伝い、あるいは天井からぶら下がっていた。頭部には人間の顔と思しき痕跡があったが、目も口も閉じているためそれをはっきりと認識するのは難しかった。


「さすがだね。よくここに辿り着いた」

 背中越しに、声が聞こえた。振り返ると、いつの間にか彼の背後、扉を出てすぐの位置に所長がいた。マスクで顔の下半分を覆っているが、その声はまぎれもなく所長のものだった。椅子に座り、立ち上がることもせず彼を興味深そうに見つめていた。


「せっかくここまで来たんだ、目をそらすのはもったいないと思わないか?」

「これは……こいつらは何なんだ?」


 彼の問いに、所長は目を細めて笑いながら答えた。

「見てのとおり、ナメクジだよ。ただし、普通の種とは比べ物にならないほど大きいが」

「あんた、俺に何をしたんだ? 俺の体から出てくる粘液は、こいつらと同じものなんじゃないのか?」

 彼ののどと体は、部屋の内部から漏れ出る強烈な湿気によってぬめりを取り戻していた。そしてそのことによって、彼の体は回復しているのであった。


 所長は彼の問いには答えず、ガラスの向こうを指差した。

「あれを見るといい」


 そこには、ほかの個体と同じく、醜いナメクジがうごめいていた。ただ一点、違うのは足のようなものが生えている点だった。せわしなく体を丸め、足の先端と頭部をくっつけるような動きを繰り返している。最初は犬や猫のように足で頭をかいているのかと思ったが、そうではなかった。そのナメクジは、自分の足を食べていた。音が聞こえないのがせめてもの救いだった。その光景は見るも無残で、彼は思わず目をそらした。


「浅ましいものだな。最初は両手足を持っていたのに、飢えて自分の体を餌にしているんだよ。彼もいずれ、正真正銘ナメクジと同じ姿になるだろう」

「俺もああなるのか?」

なぜとかどうやってとか、そんな疑問が浮かぶ余地はなかった。ただただ、目の前の異常な光景は彼の感覚を麻痺させていた。ありうべからざる事態にもかかわらず、彼はそれを自然に受け止めていた。それこそが、彼が人間ではなく、目の前にいるナメクジに近づきつつある証なのかもしれなかった。


「研究の結果次第だろうね」

 所長は冷たく言い放った。

「ここにいる個体は、すべて失敗作だ。だから餌も与えない。彼らは腹をすかして、自分の手足をかじるというわけだ。まぁ、共食いしないだけまだましだな。人間性がわずかでも残っているのかもしれない」

「質問に答えてくれ、俺はどうなるんだ?」

「前に言ったね、君は回復していると。それは人間としてではなく、もう一種の遺伝子レベルでの話だ。もう分かったと思うが、君の中にはナメクジのDNAが存在している。実験がうまくいけば、君はここにいるような役立たずとは違う、新たな種として生まれ変わるんだよ」


 ナメクジ、DNA……それらの言葉は、彼の精神を激しく揺さぶった。どうしてこんなことになっちまったんだ? 俺が何かしたっていうのか?


「あそこにあるのが何か分かるか?」

 所長はそう言いながら、今度は別の場所を指差した。サッカーボールより少し小さいくらいの丸い物体が、無数に並んでいた。クリーム色のその球体は、この異様な空間の中で美しく照り輝いていた。


「……卵か?」

「よく分かったね! 一発で当てるとはさすがだ。そのとおり、これはやつらの卵なんだよ。あそこからどんな個体が産声を上げるのか、それはまだ分からない。しかし、興味深いとは思わないか? ほんの数ヶ月前までは人間だったやつらが、卵を産むなんて!」


 所長は冷静さを失い、その瞳には凶器が宿っていた。この男のこんな表情を、どこかで見たことがあるような気がした。そういえば、ここにいるナメクジの群れを見たときも、これが初めてという感覚はあまりなかった。眠っている間にここに連れてこられたことがあるのだろうか? それは考えるだけでもぞっとする考えだった。


「こいつらも、以前は人間だったんだな?」

「そう、健康そのものの人間だったんだよ。まぁ、今となっては見る影もないがね。案外、君の知り合いもこのなかにいるかもしれないな」

 反射的に、部屋中の無数のナメクジの顔を確認しようとしていた。だが、すぐにそれが無意味であることに気付いた。たとえ知り合いの顔があったにせよ、記憶を失っている彼に、それを判別できるはずがなかった。


「300個。彼らは一度に、それだけの卵を産む。まぁ、すべてを育てるのは物理的に不可能だから、そのほとんどをわれわれが間引きすることになるだろう。それにしても、想像してみるとこれはものすごいことだよ。彼らはナメクジやカタツムリと同じく、雌雄同体なんだ。その意味が分かるかい?」

「交尾をしないってことか?」

「そう、彼らはたった一匹でも、次世代を作り出すことができるわけだ。一匹が300匹! 仮にすべてが生き残ったとすれば、孫の世代でその数は9万匹にも及ぶということだよ」


「狂ってる……」

 彼は思わず、そうつぶやいた。ガラスの向こうの光景は、さながら地獄絵図のようだった。四肢を自ら失い、地べたを這い回り、のたうちまわる様は生ける屍も同然だった。


「しかもだ、彼らにはここ数日、水以外に餌を一切与えていない。その結果が共食いならぬ自分食いなわけだが、まず両手両足をなくしても生き延びるこの生命力だ。そしてそんな異常な状態でも子孫を残そうとする本能。これを生命の神秘といわずして何という?」


 なぜ俺は、この男の言うことを黙って聞いているのだろう? 不思議と醒めた気持ちで、彼はそう思った。目の前の状況に激しい嫌悪感を覚えるものの、この男に対する憎しみはむしろ薄まっていた。


 感覚が鈍っているのだ。彼はそう考えた。皮膚をつねってみても、何の痛みも感じない。痛みがないのは肉体だけだと思っていたが、彼の精神もまた、侵されているのかもしれなかった。痛みを知らず、目的も知らず、たださまよい歩く自分の姿は目の前の醜いナメクジと大差ないのかもしれなかった。


「さて、問題はこれからだ。実はね、この先のストーリーはまだ何も考えていないんだよ」

 所長はそう言いながら、懐に手を入れた。白衣の内側から取り出されたのは、照明の下で黒々と輝く拳銃だった。


「俺を殺すのか?」

「まさか! 何度も言っているが、君は貴重な存在なんだ。ただし、この先どうするかは時間を置かなければならない。よって、しばらく眠っていてもらおうと思う」


 銃声が部屋中に鳴り響いた。銃弾は彼の腹部を貫通し、ガラスにめり込んだ。相変わらず痛みは感じなかったが、意識が遠のいていくのを彼は感じていた。


 腹部に手をやったが、血は出ていないようだった。いや、出血はしていたが、赤くないのだった。彼の体には、すでに赤い血など流れていなかったのだ。それに気付いて、ああ、自分はもう人間ではなくなったのだと彼は実感した。


 床に崩れ落ち、次第に視界が狭まってく中で、彼はガラスの向こうで、自分のほうにゆっくりと近づいてくる一体のナメクジを見た。ほかの個体よりも変異が遅いのか、人間としての表情をまだ残しており、女性であることが分かった。もとはどんな顔をしていたんだろう、彼はそんなことを考えた。なぜだか涙が止まらなかった。憎しみではなく後悔が、彼の意識を覆っていた。


 女性らしきナメクジは、ガラスまで這い進むと、上半身をガラスに押し付け、彼の顔を覗き込むような素振りを見せた。身の毛のよだつ光景だったが、彼は、目をそらすことができなかった。


 肉の襞と粘液に覆われ、醜く変わり果てたその顔から、かつての姿かたちを思い浮かべることは難しかった。にもかかわらず、彼の頭の中でそのナメクジは人間としての像を結んでいた。彼の両目から、再び涙がこぼれ出た。胸に手を当て、腰を屈め、喘ぐように呼吸を重ねながらも、彼は目を離せずにいた。ナメクジは口を大きく開き、何かを訴えかけようとしているかのようだった。


 ガラスににじり寄り、彼は手を伸ばした。たとえガラス越しだとしても、手を触れることで目の前のナメクジの思いを知ることができるような気がした。


「感動のご対面だな。まるでドラマのようだ」

 彼を冷たく見下ろしながら、所長が呟いた。しかし、その声はもう彼には届かなかった。目の前の得体の知れぬ生物に、彼は心を奪われていた。そしてガラスに手を触れた瞬間、それまでずっと靄がかかっていた視界が開けていくような感覚にとらわれた。頭の中が鮮明になり、まるで夢から醒めたような気分だった。失ったものを、彼は取り戻したのだった。


 彼は、自分がただの被害者ではないことを思い知った。蘇った記憶は奔流のように脳内を駆け巡り、涙となってあふれ出た。




 そして彼は、長い眠りについた。

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