四日目
昨日の出来事は夢だったのだろうか。右手の甲を見て、彼はまずそう思った。確かにあのとき、血が吹き出るまでドアに拳を打ちつけたはずだった。にもかかわらず、拳の表面には何の変化もなく、傷ひとつ見つからなかった。ドアには血がこびりついていたはずなのに、その痕跡も一切見当たらない。しかし、右足の小指の爪ははがれたままだった。相変わらず痛みはなく、血は既に止まっている。
枕を見ると、昨日と同じように多量の髪の毛がへばりついている。何気なく頭に手をやり、髪の毛を引っ張ってみると何の痛みも抵抗もなく、髪の毛がごっそり抜け落ちた。
「ふざけるなよ……」
思わずそうつぶやいた。あまりにも理不尽ではないか。俺が一体何をしたというんだ? 何をしたかもわからないまま、俺は衰弱して死んでいくのか? 何よりも、一人でこの現実を受け入れなければならないことが辛かった。誰でもいい、会って話がしたかった。この先、正気を保っていられる保証はない。医者だろうと看守だろうと衛兵だろうと、誰でもいい。自分がこの先どうなってしまうのか、教えてほしかった。
悲しみは涙となって頬を濡らした。それが涙なのか、それとも体表を覆う粘液なのか、彼にはわからなかった。ただただ嗚咽がこみあげ、時間だけが過ぎていった。
やがて彼は冷静さを取り戻し、重い腰を上げ、あらためて部屋を観察することにした。拳の怪我が自然に治ったとは考えがたい。自分が寝ている間に誰かが部屋に入り、治療していったのだろう。拳の怪我には気づいたが、足の爪がはがれたことには気づかなかったのだろう。だから拳の傷だけがきれいに消えたのだ。
あるいは、怪我をしたのが昨日だという前提自体が間違っているのかもしれない。仮に1週間程度眠りについていたとしても、この状況ではなんら不思議はない。デジタル時計の日付は10月26日となっており、ドアに拳を打ち付けてから丸一日が経過したことを指し示しているが、そもそもこの時計が正しいという保証もない。この部屋において、信じるに足るものなど何もないではないか。
いずれにせよ、考えるだけでは答えが見つからないであろうことは目に見えていた。無駄骨に終わるかもしれないが、人が出入りした痕跡を見つけようと彼は考えた。髪の毛の一本でもいい、誰かがここにいたということを証明したかった。この世界に自分以外の誰かが存在することを確かめたかった。その先にあるのが平穏か混乱かは分からない。それでも彼は、動かずにはいられなかった。
よく考えてみれば、彼以外の誰かが部屋に入ったことは明白なのだ。床がきれいに清掃されている、その事実こそが侵入者の存在を物語っていた。昨日はあれだけ歩きまわったのだ。彼自身の足跡が残っていないはずがないのである。足跡の形を成していないとしても、おびただしい粘液の痕跡が、本来床には残っているべきだった。
しかし、彼がそのことに気付くことはなかった。目を覚ましてから今の今まで、無意識のうちに答えを求めて歩き回ってしまった。床には新たに、彼の粘液が残された。時間とともに粘液は乾燥し、光沢を放った。彼は独り言を口にしながらうろうろと歩き回り、時折絶望的な気持ちで天井を見上げた。そして頭上に広がる限りない闇を目の当たりにして、がっくりと肩を落とした。
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