三十二日目
鼻腔を刺激する異臭に気付いて、彼は目を覚ました。部屋の様子が明らかにおかしい。ざわざわと、背中が粟立つのを感じる。早く体を起こさねば……気持ちとは裏腹に、思うように体が動かないのがもどかしい。液晶ディスプレイにも扉にも、何ら変化は見当たらない。一体何が起きている? 頭上を見上げて、彼は思わず息を呑んだ。
赤黒い巨大なナメクジが、頭上の壁に貼り付いていた。触覚が長く伸び、こちらをうかがっているようにも見える。体中がてらてらと光り、体表を走る幾本もの筋を、はっきりと見ることができた。
目をそらしてはいけない……ごくりと唾を飲み込んで、彼は考えた。自分の手足を食べたという、ガラス越しに見たナメクジの姿が脳裏に浮かぶ。自分自身を食べるのだったら、他人を食べたっておかしくないではないか。ベッドの上にいるのも危険だ。いつ落ちてくるか分からない。とにかく距離をとらなければいけない。
目を離さぬように、彼は慎重に、自分の位置を移動した。ちょうど部屋の対角線になるように、じりじりと後退した。今のところ、ナメクジは微動だにせず、眠っているようにも見える。今意識を失ってしまったらどうなるだろうか。それにしても、この悪臭はどうなっているんだ。自分も気付かぬうちにこんな匂いを発しているのだろうか? 自己嫌悪にも似た感覚にとらわれながら、彼はじっと、目の前の哀れな生物を見つめていた。
こいつももとは、人間だったのだろう。せめてもともと意識を持たなかったクローンであってほしい。人間がこんな風になってしまうなどと、考えたくもないことだった。それを認めてしまえば、自分自身の未来もない。
「聞こえるか?」
彼は試しに、声をかけてみた。反応はなかったが、かすかに触覚が動いた気がした。
「俺の言葉が分かるか? どうなんだ?」
無駄だと分かっていながらも、彼は言葉を投げかけ続けた。そうすることでしか、恐怖から逃れるすべはないと本能的に感じていたのかもしれない。
「腹が減っているんだろう? 餌ならここにあるぞ」
そう言って、彼は目の前の植物を枝ごと投げてみた。もしかしたら餌のにおいに反応するかと思ったが、やはり動きはない。
膠着状態がしばらく続き、接触をあきらめかけたときだった。突然、ナメクジは支えを失ったように、壁から剥がれ落ちた。どすんと地響きがし、ベッドがきしんだ。もしこいつの存在に気付かずに眠り続けていたら……そう思うと震えが止まらなかった。
「生きてるか?」
相変わらず、返事はない。そんなことは分かりきっているのに、声をかけずにはいられない。もしこいつが俺と同じように、人間としての意識を持って会話することができたら。そんなはかない期待を抱きながら、彼は何度も声をかけたり、枝で突っついてみたりを繰り返した。
落下の際にベッドの周囲の埃が舞い上がり、呼吸をするのがためらわれた。口を手で覆い、少しでも吸い込まずにすむようにする。そして彼は、睡眠ガスのことを思い出した。今ガスを散布されたら、一巻の終わりじゃないか。そのつもりで、このナメクジは運び込まれたんじゃないか? 当然これまでの一部始終は、監視カメラでチェックされているはずだ。俺の反応をじっくり楽しんだあとで、ガスを撒き散らすつもりなのではないか。
気が気ではなく、何度も目の前のナメクジと頭上の壁とを交互に見た。心臓が激しく波打つ。もはや悪臭は気にならず、すべての神経が視覚に集中していた。
やがてゆっくりと、ナメクジは頭をもたげ、彼のほうに顔を向けた。直視しがたい表情だった。デスマスクのように、感情のない顔は人間時代の面影をかすかに残しながらも、無数の襞と粘液に覆われて見る影もなかった。自分もやがてこうなるのかと、暗澹たる思いだった。
ナメクジはゆっくりと向きを変え、正面に彼を見る位置に移動しようとした。俺の存在に気付いたのか? 彼は壁に背中をつけ、いつでも移動できるように足に力を込めた。
じりじりと、間隔が縮まっていく。明らかに、ナメクジは彼の存在を意識し、近づこうとしていた。やばい、やばい、やばい。少しずつ右に位置を変えるものの、ナメクジもそれにあわせて体の向きを変える。何が目的なんだ? 動揺を隠せず、彼はぼそぼそと呟いた。ナメクジと会話しようなどという気持ちは、とっくに消えうせていた。
「大丈夫だよ、食われるなんてことはないから」
突然、頭上から聞き慣れた声が聞こえた。
「事前に餌は与えてある。まあ、百%安全だとは言い切れないが」
画面には、所長の顔が大きく映し出されていた。
「戌井だな? 会いたかったぞ」
一瞬目の前のナメクジのことを忘れて、彼はそう言った。
「やあ、やっぱり記憶が戻っていたんだね、安心したよ。元気だったかい?」
からかうような戌井の甲高い声が、部屋中に響く。
「お前がやったのか?」
「何をだい? そこにいる彼女のことかな」
「とぼけるな、俺を銃で撃ったのもお前だろう。どうしてなんだ? 俺が何をした?」
それは彼が記憶を取り戻して以来、ずっと抱えていた疑問だった。なぜ戌井が所長になっている? そしてどうして自分をこんな風に追い込むのだ?
「5年だ」
右手を顔の前にかざして、戌井はそう言った。
「君が眠りについてから、5年も経ったんだよ。その間、いろいろと大変なことがあった。君は知る由もないだろうが」
5年という歳月に、思わず気が遠くなる。そんなに長い間、自分は眠っていたというのか?
「いろいろ教えてあげたいのはやまやまなんだがね、今は実験のほうが先決だ。僕に気を取られていていいのかい? そら、ぼんやりしてると捕まってしまうよ」
慌てて視線を下に落とすと、手を伸ばせば届きそうな距離までナメクジが迫っていた。
「そいつはゆっくりとしか動けないけど、君もすばやく動けるわけじゃないからね。気を抜くと大変なことになるよ」
再び距離を置き、モニターを見上げる。
「何でこいつがここにいるんだ? お前、何を企んでいるんだ」
「仕方ないなあ」
戌井は腕を組んで、リモコンのようなものを手に取った。次の瞬間、画面が切り替わり、彼も見覚えのある光景が映し出された。無数に並ぶ丸い物体。それは、かつてガラス越しに見た大量の卵だった。
「こいつと交尾しろってことか?」
怒りで声が震え、喉がからからに渇く。
「交尾だなんて……動物同士じゃないんだから。君は人間だろう? 交尾なんて表現はふさわしくないんじゃないか」
「屁理屈を言うな、いいから質問に答えろよ」
「まあ、君の想像通りだな。こいつらはナメクジと同じ生態を持っている。要は雌雄同体だ。交尾をしなくても卵を産むことができるわけさ。この話は前もしたと思うが」
「だったら俺は必要ないだろう」
「でもね、それじゃつまらないだろう。せっかく男女そろったんだ、思う存分楽しんだらいいじゃないか。5年以上もご無沙汰だったわけだしね」
「何の意味がある? こんなことが許されるとでも思っているのか」
「許されてしまうんだよ、これが。もう、君が研究していたときとは事情が違うんだ。研究の内容も目的も、あのときとはまったく違うものになっている。言ってみれば、これはショーなんだ」
「ショーだと? 俺を見世物にしているのか?」
彼の問いに、戌井は答えなかった。
「まあ、がんばってみなよ。ナメクジ同士の交尾で何が生まれるかっていうのは、実験としても重要な意味を持つんだ」
そう言い残して、モニターの電源は無常にも前触れもなく切られた。
気がつくと、彼とナメクジの距離は再び縮まっていた。この狭い室内では、どこへ行ってもきりがない。ナメクジを中心に、ぐるぐると円を描くように彼は逃げ惑っていた。どうしてこんな目にあわなければいけないんだ……。息が切れ、目がかすみ、心臓が激しく波打つ。俺のこんな姿を、戌井は笑いながら眺めているんだろうか。何がショーだ、悪趣味もいいところではないか。
いっそ、壁を伝って天井まで逃げてみようか。距離を取るなら、そのほうが理にかなっている。だが、二本足で歩くかぎりナメクジよりも速く動ける自信はあったが、壁を這うとなると逆に追いつかれる危険があった。何より、ナメクジと同じ「這う」という行動を選択するのが自分自身許せなかった。
とはいえ、このままでは捕まるのも時間の問題だった。運動に慣れていないせいか、体の節々が悲鳴を上げている。彼はいったん立ち止まり、ナメクジを見据えながら呼吸を整えようとした。ちょっとでも動きを止めると、ナメクジは全身をのたうつようにくねらせて方向転換し、彼を正面に見据えた。触覚が伸び縮みしているのは、距離を測っているのだろうか。それとも何かを伝えようとしているのか。
そんなはずはあるまい。こいつらはナメクジになる以前から、物言わぬ屍のような存在だったのだ。意識がないからこそ、俺は数えきれないほどのクローンを実験体として使ってきたのではないか。
慎重に距離を置いてすり足で移動しながら、彼は考えた。本当にそうだっただろうか? 何か大切な記憶がすっぽり抜け落ちている気がする。記憶は戻ってなんかいない、何かが欠けているような気がする。
自分の考えに気をとられていたせいか、それとも足の感覚が鈍っているせいか、彼は床の状態にまったく気付いていなかった。二人分の粘液は短時間での激しい移動の結果床を覆い、川底の石を覆う苔のようにヌメヌメと照り輝いていた。木を中心にぐるぐる走り回った結果バターになってしまった虎のように、彼とナメクジの体表は絶えず粘液を分泌し、その痕跡を辺り一面に残していた。
時間の問題だった。不意に視界が揺れ、体が沈み込む。彼は足を滑らせ、したたかに腰を打ちつけた。痛みはないものの、床に残った粘液が彼の体をとらえ、立ち上がるのを困難にさせた。
冷静に対処すれば、さしたる問題ではなかっただろう。だが、ナメクジの化け物に追い詰められた状況で、彼は突然の出来事に正気を失った。慌てふためいて両手を突っ張って腰を浮かせようとするが、今度は体を支えるはずの手が滑ってしまい、彼は無様に床に転がった。
「来るな、頼むから来ないでくれ」
大声で威嚇するつもりが、恐怖で口が震えて思うように声が出ない。獲物に照準を合わせたかのように、ナメクジはゆっくりと、しかし確実にこちらに向かって歩み寄ろうとしていた。
戌井が言っていた、「交尾」という言葉がよみがえる。冗談じゃない、そんなことをできるわけがないじゃないか。無数の赤黒い襞に覆われ、粘液に覆われたナメクジの姿は、女性器にも似ていた。その連想は、彼にとっては吐き気をもよおすものでしかなかった。
蜘蛛の巣に捕らえられた羽虫のように、彼は身動きがとれずにいた。逃げようとすればするほど、粘液は粘度を増して彼の手足を縛りつけるようだった。徐々に距離がつまり、強烈な匂いを発しながら、ナメクジは覆いかぶさるように上半身を持ち上げ、彼に襲い掛かろうとした。
あまりの醜さに、彼は目を閉じることも顔を背けることもできず、目を大きく見開いて眼前に迫る巨大なナメクジを見つめていた。このまま食い殺されるのだと思った。涙を流しながら、彼は「許してくれ」とつぶやいた。
時間が止まったかのようだった。ナメクジは上半身を持ち上げたまま、凍りついたように動きを止めた。死を前にして、目の前の光景がスローモーションに感じられているのかと思ったが、それにしては不自然だった。
元は人間の顔だったのだろう、触覚の下には鼻や口の跡のような窪みがあった。胴体に比べて、頭部にはほとんど襞がなく、逆にそれが哀れでもあった。体中を襞と粘液で覆われてしまえば、人間としての痕跡をまったく失ってしまえば、苦しい思いもしないですむのではないだろうか。何の根拠もないが、彼はそんな風に感じていた。
ナメクジの口の部分が、わずかに動いたような気がした。息を吸い込んだようだった。あぁ、こいつらは口で呼吸をするのかと、彼はそんなことを思った。
「ユルシテ……」
確かに、彼の耳にはそう聞こえた。さっきの自分の言葉を真似したのだろうか? それともただの空耳か。そして次の瞬間、ナメクジは操り人形の糸が解けたように、力なくその場に倒れこんだ。だらしなく弛緩したその肉体は重力に抗う術を持たず、醜い塊として存在していた。もはや生命の気配はなく、鼻をつく悪臭は早くも腐臭に変わりつつあるように感じられた。
「おかしいな、興奮しすぎて心臓が止まったのか?」
頭上から声が響く。またあの男かと、彼は上を仰ぎ見た。
「台無しだな、なかなか思ったようにはいかないものだ。ねえ君、どうなっているのか調べてみてくれないか」
彼は荒く息をつきながら画面をにらみつけた。言葉は発さず、不愉快な声の主を射殺さんばかりに目を見開いた。
「怒っているのかい? まあよかったじゃないか、君の貞操は守られたわけだ」
「戌井、お前は何がしたいんだ」
「言ったじゃないか、ショーだって」
「悪趣味にもほどがある」
壁にもたれかかり、呼吸を整えながら彼は思った。いったい、何が真実なんだ? 戌井の言うことは鵜呑みにはできない。こいつ以外に、自分の知っている人間がいれば話が早いのだが。
「トゥルーマン・ショーって映画を知っているかい?」
「主人公の生活が、全世界に垂れ流しになってたってやつか」
「そう、24時間365日、主人公の一挙手一投足が世界中で注目されていたんだ。生まれたときからずっとね。すごいことだと思わないか?」
「……俺はトゥルーマンと同じってことか」
「察しがいいね。脳みそはまだ溶けてないみたいだ」
おっと失礼と言い足して、戌井は続けた。
「似たような事例は、実際に存在する。たとえば、1930年代に生まれたカナダの五つ子だ。いずれも女の子だったらしいが、当時としてはこうした多胎児は珍しかった。州政府が強引に親権を実の両親から取り上げ、彼女たちを見世物にしたそうだ。家をテーマパークにしてね、信じられない数の観光客が訪れ、彼女たちはほとんど外出を許されなかったそうだ」
「何の話がしたいんだ」
「要するに、好奇心ほど恐ろしいものはないってことだ。そして人間は、生物学的にちょっと変わった人間に対して異常なほどの好奇心を示す生き物だ。体外受精によって超多胎児が珍しくなくなった今、五つ子なんて商売のタネにもならんが、当時は見世物として最適だったわけだ。そして今、世界には娯楽というものが圧倒的に不足していてね。まあこんな世の中じゃ仕方ないんだが。しかも、金持ちどもはどさくさにまぎれてありとあらゆる欲望を満たしてしまったらしい。ちょっとやそっとのことじゃ満足してくれないんだよ」
「俺のこの姿を、お前以外にも笑って見てるやつがいるってことか? そもそも、ここでの研究は外部に漏らせないはずだぞ」
不意に戌井は真顔になり、前のめりになった。
「まぁ、実験の一部始終を外部に流してるわけだから、問題かもしれないね」
「俺が目覚めたときからそうだったのか? 部屋から脱出しようとしたときも、あのガラス張りの部屋に入ったときも」
「そう、やっと分かったみたいだね。君をだまし続けるのは心苦しかったが、根が役者なものでね、つい真剣になってしまった」
確かに、戌井の行動は不自然だったのだ。あの日、部屋から逃げようとしたときも、研究員に指示を出すだけで戌井は彼を捕まえることができたはずだった。それなのに、わざと研究員に距離を保たせて、彼が移動するのを見守っていた。すべて仕組まれていたことだったのかと思うと、言いようのない怒りが湧き起こった。
「お前の話は胡散臭いと思っていたんだ。確かにお前は、昔から嘘つきだった」
「いやだなあ、あんなに仲良くしていたのに。心外だ」
そう言って、戌井は腕時計に目を落とした。そして「もう時間だ」と呟いた。ガスが漏れる微かな音が聞こえてきた。睡魔に抗えず、暗闇が彼を飲み込んだ。
クロス・ブリード 長岡清十 @nagaesu
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