十二日目

 3日が経過したが、あれ以来液晶ディスプレイの電源がつくことはなかった。体中を覆う粘液は一層粘性を増し、気がつけば彼はベッドを必要としなくなっていた。痛みも寒さも感じないのだから、床に寝転がったところで何の不都合もない。むしろ布団が体に絡み付いて離れないことのほうが鬱陶しかった。


 自分の意志で、床で寝ることを選んだわけではない。ただ、目が覚めると床と壁の狭間に体を押し付けるようにしている自分がいた。寝ている間に移動しているのか、それとも移動させられているのか。いずれにせよ、もうベッドに戻ろうという気もしなかった。言いようのない虚無感が、彼から希望を奪い去っていた。


 髪の毛はすべて抜け落ち、眉毛やまつげもなくなってしまったらしい。もう、目を開けることも億劫だった。額に手をやると、両目の上のあたりに2箇所、できものがあった。まともなときならそれだけで憂鬱になったのかもしれないが、今はもう何も感じなかった。この環境に順応してしまったのだろうか。目を閉じて両膝を抱えていると、母親の胎内で眠る赤ん坊のような心地よさを感じた。粘液に包まれていることが、彼に安堵を与えていた。


「あ……あぁ……」

 時折うめき声を上げて、自分がまだしゃべれることを確認した。鏡がないから、自分がどんな顔をしているのかはわからない。この病気が治るかどうかもわからない。ただ、しゃべることさえできれば。それだけが、自分が人間であることの証のような気がした。


 だが、その声さえもいずれ失うのではないかと彼は危惧していた。のどに違和感があるのだ。粘液が体内にまで浸透してのどを圧迫しているのだろうか。息苦しくはないのだが、時折ごぼごぼと痰が絡まったような状態になるのが苦痛だった。


 ぼんやりと、真っ暗なディスプレイを見上げる。あの映像はいったい何だったのだろうか。俺の反応を確かめようとしていたのか、それとも別に意味があったのか。徹底的に追い詰めて、そこでやさしく手を差し伸べようというのか。答えの出ない問いに思いをめぐらせながら、ふと彼は、壁の汚れに気がついた。


 彼が移動したあとには必ず床に粘液が残り、やがてそれが乾いてかすかな光沢が残る。その光沢が、壁にも残っていた。自分の身長よりも高いところに。


 背伸びをして手のひらを押し付けたにしては、光沢の面積が大きかった。寝て起きた後のように、体全体を押し付けなければあれだけの範囲に粘液はつかないはずだった。


 彼はのろのろと壁に向かって立ち、両手を押し付けた。手をはがそうとすると抵抗があり、半透明の糸を引く。次に彼は体全体を壁に押し付けた。びちゃっといやな音が室内に響く。そのまま右半身、左半身と順に体を上方向に持ち上げる。


 両足はもう、床から離れていた。彼の体は重力に逆らうように、壁に貼り付いたままだった。無意識のうちに、俺はこれと同じことをしていたのか? いったい何のために?


 そのまま上を目指そうかとも思ったが、その前に一度壁から体を離して、考えをまとめることにした。自分の体の異変について、あらためて。


 体中を粘液に包まれているのだから、壁を伝って移動できたとしてもおかしくはない。問題は、無意識のうちに壁を移動していたことだった。目が覚めたときに床に寝転んでいたのもそのためだろう。ベッドよりも床を選び、重力に身を任せるより壁を移動しようとする本能。それのどこが人間なのか。


「おい、見てたか?」

彼はディスプレイに向かって語りかけた。

「これは病気なのか? それとも何かの実験か? 聞こえているんだろう? 答えたらどうなんだ!」


 拳を床に打ち付ける。あの日、ドアを殴りつけたように。だが、座った状態で力もそれほど入れていなかったはずなのに、「ミシッ」と何かが砕けるような音が響いた。外からではなく、それは彼の体内から響く音だった。まさかと思い打ちつけた右手を見ると、親指以外の4本の指が、力を失って垂れ下がっていた。骨が、折れていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る