九日目

 目を覚ますと、いつもと同じようにスチールベッドに横たわっていた。地震の痕跡はどこにも見当たらない。ただひとつだけ、室内に変化があった。扉とデジタル時計の間、それまではコンクリートむき出しで何もなかった壁に、大型の液晶ディスプレイが据え付けられていた。テレビだろうか? 周囲を見渡すが、リモコンのようなものは見当たらなかった。


 この変化は彼の精神に大きな安定を与えた。人は変化がなければ生きてはいけない。彼は数日前から、閉じ込められて以降の日数を壁に刻むことにしていた。はがれた爪がそのための道具だった。まるでロビンソン・クルーソーのようではないか。一人無人島にたどり着き、孤独と戦った男。だが、ロビンソンは自分に比べればまだましだったはずだ。彼の生活にはさまざまな変化と発見があった。何より、出会いがあった。


 それに比べて自分はどうだろう。変化があるとすれば、自分の体だけだった。思いをはせるべき道具も機会もなく、ただ時が過ぎるのをじっと待つだけだった。


 そんな絶望的な現実を、液晶ディスプレイの存在が打ち消した。これから何かが起こる、そんな予感がした。いいことなのか悪いことなのかはわかない。だが、何かの目的があって据え付けられたことは間違いなく、彼は早くその答えを知りたかった。


 些細な変化も見逃すまいと、彼はせわしなく立ち位置を変え、画面を見守った。彼が歩いた後には粘液が残り、蛍光灯の光を鈍く反射した。日を追うごとに粘性は強まり、足の裏が床に貼りつくせいで普通に歩くことも困難な状態だった。ただ歩くだけでも体力を要し、疲れはたまる一方だった。だが、それでも彼は何かに取りつかれたかのように、歩みを止めることができなかった。地震が起こる前に比べて明らかに体が軽くなっているのだが、それにも気づかぬ程彼は興奮していた。


 どのくらいの時間、そうして歩き回っただろうか。疲れが限界に達してベッドに座り込んだとき、そのタイミングを見計らったかのようにディスプレイの電源が入った。砂嵐のようなノイズが画面を覆い、やがて霧が晴れるようにどこかの町並みが映し出される。彼は固唾を呑んで、食い入るように画面に見入った。


 ハンディカメラを固定して撮影したものなのか、画面はぴくりとも動かない。鮮やかな葉をつけた大樹があり、その横にバス停の看板とベンチがある。5歳くらいの少女とその母親が、手をつないで座っている。

 ここに閉じ込められて以来、初めて目にする緑と人の姿に、思わず彼は虚空に手を伸ばした。人恋しいというのは、こういう状態をいうのだろう。声が聞きたい。たとえ録画されたものだったとしても、彼はそれを望んだ。


 鳩がしきりに地面をついばんでいる。少女はそれが気になるらしく、近づこうとしては母親に止められて不満をあらわにしていた。二人の影が長く伸びていることから、夕方にさしかかる時間帯なのだと察せられた。


 母親がしゃがみこみ、少女に何かを言い聞かせている。声は聞こえないが、そのやりとりはとてものどかで、彼は飽かず画面を見つめていた。


 自分にも、家族がいたのだろうか。彼はふと、そんなことを思った。妻はいたのだろうか。子どもはいたのだろうか。両親はいたのだろうか。友達はいたのだろうか。自分がいなくなって、悲しむ人はいるのだろうか。今までは自分の境遇を呪うばかりだったが、外の世界には自分の不在を嘆く人がいるのかもしれない。


 画面に映る2人こそが、自分の家族なのかもしれない。そう思うと、瞬きすることさえためらわれた。だが、しばらくするとバスが画面をふさぎ、走り去った後には親子の姿はなかった。彼は思わずため息をついた。


 枝葉が風に揺らいでいた。下車した数人の男女が、左右に分かれて歩き出す。穏やかな光景だった。だが、突如彼は立ち上がり、画面に近づいた。


 木々をなぎ倒さんばかりの突風が吹き荒れ、次の瞬間、画面のあらゆるものが炎に包まれた。樹木も、バス停の看板も、ベンチも、そして人々も。今にも悲鳴と炎がはじける音が聞こえてきそうで、彼は耳をふさいだ。


「何だ、これは……」

 そう口にせずにはいられなかった。いったい何が起こっているんだ?


 すると画面が切り替わり、ビルの入り口が映し出された。せわしなく人が出入りしている。ほとんどがスーツ姿で、自動ドアの脇には守衛が立っている。大企業のビルか、それとも官公庁舎だろうか。やはり音声はなく、ただ淡々と、時間が過ぎるに任せるような撮り方だった。


 再び画面に異変が生じた。多くの人が歩みを止め、上を見上げている。空を指差している者もいる。最初は珍しいものを見たように、野次馬のような笑顔を浮かべていたものが、やがて一様に表情が凍りつき、ビルの中に駆け込もうとする。一瞬にして画面が真っ赤な炎に包まれ、ビルのガラスが砕け散る。人々の姿は画面から消えていた。まるで手品のように、炎だけが残されていた。


 彼の脳に新たな記憶を刷り込もうとするかのように、同じような映像が繰り返された。メジャーリーグの中継であったり東南アジアの川面だったり、場所は日本に限らずさまざまだったが、いずれも最後は画面を真っ赤に染めて終わった。

何度も反復される凄惨な映像に耐えられなくなり、彼はついに目を覆った。


 そのとき、どこかで聞き覚えのあるメロディが流れてきた。「アヴェ・マリア」というフレーズだけが延々と繰り返される。讃美歌だろうか。

 

 呼吸が早まり、鼓動が高まるのを意識しながら、彼は懐かしいその音色に耳を傾けた。


「カッチーニのアヴェ・マリアか……」

 何度もその歌を口ずさんだ記憶がある。誰かにその歌を教えたことがある。この歌詞だったらお前でも覚えられるはずだ。そんな台詞が蘇ってくる。


 再び目を開けると、画面はノイズに覆われており、やがて切り替わった。それは鮮やかな草花が咲き誇る、美しい庭園だった。人の姿はなく、子犬が駆け回っている。そして女性の声が室内に響いた。


「世界は滅びました」

 信じがたい内容だった。信じられるわけがない。何のための映像なのだ。事実ならもっと、やりようがあるだろう。この安っぽい映像とナレーションは何なんだ。先ほどの映像と、現在の穏やかな映像の落差も、彼の精神に動揺を与えていた。


「世界各地で起こった核爆発によって、私たちは地下での生活を余儀なくされました。地上にいたほとんどの生物は息絶え、核シェルターで暮らしていたごく一部の人間だけが生き残ったのです」


 抑揚のない、感情のこもらないナレーションだった。気がつくと、彼は小刻みに体を揺すっていた。


「おい、誰かいないのか? どうなってるんだ、これは!」

 扉に向かって、画面に向かって、彼は大声で呼びかけた。だが、その声には何の反応もなく、映像が続くだけだった。


「私たちが現在暮らしている地下シェルターには、各地から被災者が運び込まれています。その多くは放射線に汚染され、早急な治療を必要としています。当財団では……」


 そこで唐突に画面が歪み、白い服を着た大勢の男女が思い思いの楽器を演奏し、歌い踊るシーンに切り替わった。色とりどりの風船やしゃぼん玉がステージや客席を埋め尽くしていく。画面にうつるのは笑顔ばかりだ。


 そして映像は終了し、静寂が室内を覆った。

「そんな馬鹿な……」

 粘液に覆われた両手をじっと見つめ、彼は自身の体に起こった異変について考えた。放射線という単語が脳裏をよぎる。


 得体の知れない恐怖にさいなまれる一方で、彼はどこか、受け入れがたいものを感じていた。こんな話を信用できるか? 世界各地で同時に核爆発だなんて、そんなことが起こるわけがないじゃないか。そういえば、映像の最後に「財団」という言葉があった。ここは何かの組織で、何らかの目的であの映像をつくったはずだ。


 思わず腹の底から笑いがこみ上げる。そうか、ここはきっと宗教団体なんだ。あれはきっと、信者を獲得するための安っぽいドラマなんだ。


「おい、俺はだまされないぞ! 聞こえているんだろ? 俺を観察してるんだろ? 何とか言ったらどうなんだ」


 だが、何のために? その疑問に思い至ったとき、彼は再び、出口の見えない迷路にまよいこんだ。仮に宗教団体だったとして、自分のこの症状は何なんだ?


 やはり何かの実験台にでもされているのか? 現状に希望など見出せるわけもなく、彼は再び黙り込んだ。


 とにかく、じっと待つことだ。あの映像にはきっと何かの意味がある。俺の反応を確かめて、何かをする気なんだ。だとしたら、いざというときのために体力を温存しておかなければならない。さっきまで長時間歩き回ったせいで、両腿は疲労でパンパンに膨れている。忌々しげに舌打ちをし、彼はベッドに寝転んだ。やり場のない怒りを抱えながら、彼は天井を見つめていた。

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