十三日目
目が覚めると、またいつもと同じように床の上に転がっていた。相変わらず体が重く、力が入らない。
いつからだろう、服を着なくなったのは。この部屋で目を覚ました最初の日、彼は淡いブルーの入院着を着ていたはずだった。粘液で体に絡み付くことを嫌って、無意識に脱ぎ捨てていたのだろうか。裸でいることに違和感を覚えることはなく、服を着るという人間らしい行為を、知らず知らず放棄していることに彼は気づいていなかった。服を着るという行為自体が、彼のなかからすっぽり抜け落ちていた。
上を見上げると、液晶ディスプレイの電源が入っていた。慌てて正面に回り込み、ベッドに腰掛ける。画面には医者か研究員か、白衣を着た男が映っていた。
「おはよう、目が覚めたかな? “はじめまして”のほうが挨拶としては適切かな」
男は甲高い声で、そう言った。40代前後くらいか、かすかに頭髪に白髪が混じっているが、顔立ちは整っている。ただ、切れ長の目と口ひげ、言葉の節々でつり上がる口角が、神経質な印象を与える。
「驚いているようだね。無理もない。ここで目覚めてからもう2週間くらいは経過したのかな」
「あんたは誰だ? 俺はどうしてここに閉じ込められているんだ」
ずっと1人で抱え続けていた疑問をぶつけたが、その言葉は届いてはいないようだった。
「先に言っておくが、君の言葉はこちらには届かない。君が今見ている映像も、録画されたものだ。そのうち実際に会う機会もあると思うが、まぁ今日のところはこれで勘弁してほしい」
男の口調はゆっくりと、こちらに考える間をあえて持たせるようなしゃべり方だった。「実際に会う機会」という言葉が気になった。ここから出られるということか? それともこの男が部屋に入ってくるということなのか。
「それにしても右手の指は災難だったね。一応処置はしておいたが、その状態では包帯を巻いても意味がない。しばらく不便な思いをすると思うが、ぶつけたりしないようにしてほしい。いずれ症状が回復したら、そのとき改めて治療することにしよう」
「症状? やっぱり俺は病気なのか?」
答えが返ってこないとは分かっていながら、問い返さずにはいられなかった。
「信じるのは難しいかもしれないが、君の症状は確実によくなっている。そうだ、この辛い状況で2週間も耐え抜いたんだ、明日になったらお祝いを進呈しよう。ここに来てから、君がずっと忘れていたものだ。もしかしたらもう必要ないかもしれないが……」
いかにも自分の提案が気に入ったように、男は満面の笑みを浮かべていた。こいつは俺のこの状態を本当に知っているのか? 回復しているだと? そんな馬鹿な……。
やがて画面の中で鐘の音が聞こえ、男はそれに反応して後ろを気にし出した。
「申し訳ない、もう時間のようだ。それじゃあ、明日を楽しみにしていてくれたまえ。早く元気になるよう祈っているよ」
男はそう言い残して立ち上がり、そこで画面が真っ暗になった。
画面を見るためにずっと彼は顔を上に向けていたが、映像が途切れると糸が切れたように肩を落とし、頭を垂らした。反動であごから粘液が滴り落ち、長い糸を引く。
あのときの映像と同じだと、彼は思った。真実味が感じられないのだ。白衣の男の態度は終止芝居じみていて、他人の不幸をあざけるようなそんな印象だった。得体の知れない病気のせいで疑り深くなっているのかもしれないが、ずっと望んでいた他人との接触を喜ぶ気持ちにはとてもなれなかった。
そういえば、あの男は確か「お祝いを進呈しよう」と言っていた。「ずっと忘れていたもの」とも、「もう必要ないかもしれない」とも言っていた。それが何を指し示すのか、想像もつかない。自分が今、心底望んでいるものは何だろう。自由、健康、記憶。誰もが当たり前に手にしているはずのものを、彼は何一つ持っていない。
いずれにせよ、期待してはいけないと彼は考えた。男の口ぶりには同情心のかけらもなく、彼の醜態を観察して楽しんでいるかのようでもあった。そんな男が、何を自分に与えてくれるというんだ? 疑問は尽きることがなく、虚ろな目は粘液で覆われ、もはや焦点が合っていなかった。小刻みに体を揺すりながら、彼は「信じるな」とつぶやいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます