二十九日目
ようやく、彼は目を覚ました。脱走以来、一週間以上も眠り続けていたことになる。人間として目覚めても、彼は環境の変化に気付かなかった。鼻をつく異臭も、食い散らされた植物も、まるで気にはならなかった。それが当たり前なのだと無意識下に刷り込まれているのか、あるいは感情自体を失いつつあるのか。彼はゆっくりと体を起こすと、「戌井はどこだ」と叫んだ。
以前のように液晶ディスプレイに男があらわれることを期待したが、何も起こらなかった。その代わりに、廊下を慌しく駆け回る音が聞こえた。しかし足音は部屋の前を通り過ぎ、再び静寂が部屋中を包んだ。
彼は体のあちこちを手でもんで確認しながら、慎重に立ち上がった。まだ立てる、それが第一の感想だった。あの日見た、ガラスの向こうの光景を彼は忘れてはいない。まずは立つこと。そして意志を持つことだ。それを失ったら、自分はあのナメクジと同じになってしまう。何があっても、この二本の足で地面を踏みしめ、どんなに辛くとも地を這うことだけはしてはならない。
一歩一歩確かめるように、彼は部屋の中を往復した。常人の歩みに比べれば、スローモーションのような動作だった。それでも、歩けるだけまだましだと思った。
腹部の傷は完全にふさがっている。傷跡すら残っていない。その事実を忌々しく思いながら、彼はベッドに横たわり、目を閉じた。床ではなくベッドを選んだのも、人間らしくありたいという思いからだった。
自分が目覚めたことは、とっくに筒抜けになっているのだろう。だとすれば、暴れても喚いても意味がない。じっと、向こうから近づいてくるのを待つのが得策だった。
銃で撃たれる前に比べて、だいぶ腹が出ているように感じた。無意識のうちに食事をとっているということなのだろう。考えたくもないことだが、生きるためには仕方のないことだった。しかし、植物だけでこんなに太るものだろうか? そういえば、ガラスの向こうにいたナメクジたちも、腹をすかして自分の手足を食べている割には、やせ細っている印象はなかった。そういう風に、遺伝子が変異しているのだろうか。
あのナメクジたちは、やはり元はクローンだったのだろうか。その可能性は高いが、だとすればなぜ、自分も巻き込まれているのだ? それだけが、腑に落ちなかった。
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