五日目
スチールベッドに寝転がって、彼は物憂い表情で天井を見つめていた。はじめてこの高い天井を見上げたときは、自分がまるで井戸の底にいるように感じた。しかし今は違う。顕微鏡の筒を通して観察されている、そんな気がしていた。プレパラートに閉じ込められた微生物のようなものだ。透明なガラスに圧迫されて身動きできない。体中にまとわりつく粘液は、ガラスの間に垂らされた水分のようなものだろう。
こうした自虐めいた思考も、長続きはせず霧散していく。天井を見つめていたはずが、やがて焦点がずれてぼやけていく。気がつくと爪をかじっている。記憶を失う前はこんな癖があったのだろうか。
計算してみると、1日のうち20時間あまりを寝て過ごしているらしい。起きているときも頭がうまくまわらず、集中力が続かない。こんな状況下でも気が狂わずにいられるのは、夢うつつのような状態だからだろうか。妙な薬でも飲まされているのか。
痛覚を失ったのだと思っていたが、全身に麻酔がまわっているような状態なのかもしれない。目を閉じてしまえば、自分の手足がどこにあるかも定かではないくらいに体中の感覚がない。両目の上あたりに妙なかゆみがあるくらいで、あとは宙に浮いているような頼りない気分だ。案外、羊水のなかで眠っていたときはこんな感じだったのかもしれない。
ベッドから降りる気にもならない。彼は胎児のように体を丸めて、飽きることなく爪をかじっていた。右手の人差し指の爪はもう噛みつくしてしまった。次は中指の爪にしようか。それとも……。
人差し指の腹からは血がにじみ出していた。爪を噛むときに誤って歯をたててしまったのだろうか。それにしては、やすりでけずったような擦過傷が指の腹全体に広がっている。いや、どうせ放っておけばこの傷も勝手に治ってしまうのだろう。表面を薄く包む粘液は、微かにうごめいているようにも見えた。どうせそれも気のせいだ。彼は投げやりな気持で、仰向けになって眠りの世界に落ち込もうとしていた。
粘液がマットレスを腐らせたのか、腰のあたりにくぼみができていて居心地が悪い。そのまま体がくの字に折れて、奈落の底に落ちて行きそうな錯覚にとらわれる。
……そんな絵を、昔見たことがあるような気がする。モノクロームの、裸体の女性を描いた作品だ。確かスペインで活動する日本人画家だった。何という名前だっただろうか。何という作品名だったろうか。
グスタフ・磯江だ。「深い眠り」という作品だ。いつ、どこで見たかは思い出せない。しかしそれは、彼がこの部屋ではじめて取り戻した記憶だった。記憶のすべてを失ったわけではないのだ。俺は確かに、外の世界を知っているのだ。体は相変わらず物憂い眠りを引きずっていたが、彼は横たわって天井を見上げたまま、肩を震わせて泣いていた。
「俺は生きてここを出てやるぞ」
声にならない、弱々しくかすれた決意だった。彼は唇を強く噛みしめて、涙が流れるに任せていた。そうして彼は、懸命に体を起こそうとした。ベッドに貼り付いた粘液が、逆らうように彼を後ろに引っ張ろうとする。邪魔をするな、俺は生きるんだ。ここから出るんだ。
何とか上半身を起こしたものの、脳に血液がまわっていないのか激しく世界が回転している。眩暈はやがて泥のような睡魔となって、再び彼をベッドに引きずり倒した。唇から血が流れていた。眠るものかと念じながら、彼は闇のなかを泳いでいた。
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