十四日目

 それを前に、彼は戸惑いを隠せずにいた。あって当然のものが、今までこの部屋にはなかった。そしてそのことに自分はまったく気づいていなかった。


 それは食事だった。目を覚ますとドアの下にアルミ製のトレイが置いてあり、その上にはおかゆと皮をむいて一口大に切られたリンゴが乗っていた。コップにはお茶も入っている。簡素な食事ではあったが、それは彼が人間として、生物として摂取すべき当然のものだった。


 しかし、彼は手を伸ばすことをためらった。あいつらを信用していいのか? 毒が入っているかもしれないじゃないか。あるいは睡眠薬か何かが仕込まれているかもしれない。何より、昨日ディスプレイに映ったあの男の情けを受け入れるのが堪えがたかった。


 だが、結局彼は誘惑に打ち勝つことができなかった。2週間におよぶ監禁生活で神経が鋭敏になっているのか、おかゆから湯気とともに立ち上る懐かしい香りが、彼の思考能力を鈍らせた。こんな体になって、いったい何を恐れるというのだ? 毒が盛られていたってかまわないじゃないか。どうせこのまま死を待つだけなんだ。それだったら、空腹を満たして満足しながら死んでいきたかった。


 食事を目にして、彼は初めて空腹というものに思い至ったのだった。そしてそれは意識すればするほど胃袋をしめつけ、彼の欲望を突き動かした。


 ディスプレイの画面に昨日の男が映し出されたのは、まさに彼が食事に手を伸ばそうとベッドから腰を浮かせた瞬間だった。


「やあ、おはよう。プレゼントは気に入ってもらえたかな?」

 タイミングをはずされて、彼はしばし呆然と、間の抜けた表情をさらしていた。口の端からよだれとも粘液ともつかない液体が零れ落ちた。


「本当は君が目覚めたときに合わせて話をしたかったのだが、部下の手違いでね。きっと戸惑っているだろうと、そわそわしていたんだよ」

 そう言って、男はにっこりと微笑んだ。ペットの目の前に餌をおいておきながら、ずっと待てを強要して喜ぶ飼い主のようだった。


「どうしたんだ、今日はえらくおとなしいね。言葉を失うほどうれしかったのかな? さあ、早く食べればいいじゃないか。冷めてしまわないうちに!」

 言葉を失ったのは確かだった。だがそれは喜びではなく、戸惑いと警戒によるものだった。まずひとつ、これは録画ではない。リアルタイムで回線が通じているはずだ。昨日は録画されたものだと言っていたが、先ほどの口ぶりからすると、確実に画面の男は今現在の部屋の状況を把握して、それに対して会話を投げかけている。


「聞こえるか?」

 彼はぼそっと、言葉を放り捨てるように問いかけた。それに対する返事はない。


「急に黙るってことは、やっぱり聞こえてるんだな? もう騙されないぞ」

 男の表情が一瞬緊張し、やがてもとの穏やかな笑顔に戻った。


「すごいな、どうして分かったんだい? ばれないようにしておきたかったんだが。やっぱりしゃべりすぎはよくないね。ぼろが出てしまったようだ」

「そんなことはどうだっていいんだ。ここはどこだ? 俺はどうなってるんだ?」

「さびしいなぁ、まずは私に対する疑問が先なんじゃないか? あんたは誰だってさ。相手を知って、敬意をはらって、そこから初めて会話は成り立つものだよ」

「屁理屈はどうだっていいんだ。あんたはずっと俺を見ていた。陰であざ笑ってたんだろう。何のためにだ? いったい何の意味があるんだ?」

「はは、急に元気になってきたね。やっぱり人は、話し相手がいてこそ生きていけるってことかな。だとしたら、よく2週間も平気でいられたもんだ」


「本当に2週間なのか?」

 それは彼がここ数日、ずっと抱え続けていた疑問だった。目を覚ましたのは確かに2週間前だ。だが、この場所がはじめてという感じはしなかった。もともとここの患者だったのか、実験体だったのか、いずれにせよ彼は、ここを知っているはずだった。


「記憶が戻ったのかい? いや、そんなはずはないな。デジャヴとか、そんな類のまやかしだろう。君は2週間前にここに運び込まれた。前にビデオを見ただろう? 核爆発のさ」

「放射線が俺をこんな姿にしたのか?」

「いや、放射線は直接の原因ではない。核爆発の被害はすさまじかったようだが、生き残った人間は多かった。まあ、地球全体の人口と比較したらほんの一握りにすぎないが」

「信用しないぞ、そんなこと。どうせ宗教団体の勧誘映像だろう?」

「信用するしないは君に任せるよ。事実は事実、変わることはない。実際に、私たちはこの地下生活を余儀なくされている」


 男は大げさに肩をすくめて、ため息をついた。

「そんなことより、君の症状だ。さっきも言ったように、放射線は直接の原因ではない。核爆発の直後、黒い雨がずっと降り続いた。確か小説でもそんなのがあったな。被爆を免れた人々は地下で息を殺していた。何しろ状況がまったくわからない。テレビもラジオも通じないんだ。しばらくそんな日々が続いた。はっきりいって、君の10日間のストレスなんてそのときの恐怖に比べたらたいしたことはない」


 男の口調に、彼に対するいたわりはもはやなかった。「こいつは酔っている」彼はそう思った。自分の演説に、男は酔いしれていた。


「やがて状況が変わった。まずは赤ん坊と老人だ。抵抗力の弱いものが次々に倒れていった。体中を粘液に覆われ、身動きもままならなくなり、静かに息絶えていった。君と同じ症状だ」


 信じたくはなかった。だからといって、耳をふさぐこともできなかった。炎に群がる虫のように、彼は男の言葉に意識を奪われていた。


「死体を解剖し、調査した結果新種のウイルスによるものだとわかった。すぐに抗ウイルス薬の開発に着手したが、一度感染したものを助けることはできなかった。一度は成果をあげたとしても、ウイルスはそれに対抗して急速に変異を繰り返し、いたちごっこが続いた」

「要するに、俺はウイルス感染して隔離されてるってことなのか?」

「そのとおり、飲み込みがいいね。当初、君の症状はいつ死んでもおかしくないレベルだった。だが、君は生きた。何が原因かはわからないが、生き延びた。前に言っただろう、君は回復していると。あれは真実だよ」

「じゃあ、いつまでこの状況が続くんだ? いつになったらここから出られるんだ?」

「残念だが、当分君にはここにいてもらうよ。回復しているとはいえ、まだまだ何が起こるかわからない。それに君は、貴重なサンプルなんだ。君が生き延びるということは、多くの感染者にとって希望の光だからね」


 彼は目を閉じて黙り込んだ。この男の言うことを鵜呑みにしてはいけない。だからといって、疑うことで得られるものがあるだろうか? このまま画面を通して会話を続けても、何も生まれはしないだろう。実際に会ってみなくては何もわからない。


 そのためには、男の機嫌を損ねないほうがよさそうだった。何でもいい、会うきっかけを作らなければいけなかった。だが……こんな姿になっても、彼は卑屈になることができなかった。自尊心を捨てることができなかった。


「あんたは何なんだ?」

 彼は目を伏せ、画面を見ずに言った。

「そうか、ちゃんと自己紹介をしていなかったね。私は」

「違う」

 小さな声で、しかしはっきりと画面の男に届くように彼はつぶやいた。男は不審な表情をしていた。


「あんたの名前なんかどうだっていいんだ。そんなことより、どうしてあんたはそんなに楽しそうなんだ? 何がそんなにおかしいんだ? 世界が滅びたんだろう? たくさん死人を見てきたんだろう? どうしてあんたはそんなに他人事な態度をとってられるんだ」


 飼い犬に手をかまれたような、そんな表情で男は画面の奥から、彼をじっと見詰めた。笑顔は消え、何かを探ろうとする研究者の目だった。

「どうも君は勘違いをしているみたいだな。まず、私は医者ではない。だから君の病気が治ろうと治るまいと、正直な話そんなことはどうだっていいんだ」

「医者でなければ何なんだ? マッドサイエンティストか?」

「おもしろいことを言うね。だが、なかなか的を射ている。確かに私は狂っているかもしれないね。研究者として、今のこの状況は大きなチャンスなんだよ。なにせ、サンプルははいて捨てるほどある。サンプルが死んだところで罪には問われないし、それさえもデータの蓄積になる。要するに、私の目的は君を治すことではなく、観察することなんだ」

「俺はあんたのモルモットってわけか」

「そう怒らないでくれたまえ。利害は一致しているじゃないか。私は君の症状について調べたい。君はその症状を治したい。我々はもっと、歩み寄ったほうがいい」


 確かに、彼にはほかに選択肢がなかった。たとえ男を拒絶したところで、眠っている間にデータを取られるのがおちだ。実際、今までもそうされていたのだろう。それがいやなら……自分で命を絶つしかないではないか。


 どうせ死ぬなら、このふざけた男に一泡吹かせてやりたい、彼はそう思った。従順なふりをして噛み付いてやればいいではないか。自分がウイルスに感染しているのなら、うつしてやればいい。自分のこの苦しみを味わわせてやりたかった。


「少し考えさせてくれ。頭が混乱してるんだ」

「そうだね、何しろすべてが急だったんだ、パニックに陥っても無理はない。とりあえず、食事はしっかりとったほうがいいな。質素で申し訳ないが、徐々に胃袋をならしていかないといけない。いずれもっとしっかりしたものを食べられるようになるはずだ」


 男の言葉を受けて、彼はドアの下に置かれたままの食事のトレイを見た。もう迷うことはない、食べて体力をつけるんだ。男と対峙するそのときまで、俺は何だって受け入れてやる。そんな決意を胸に、彼は画面を一瞥するとベッドを離れ、おかゆの入った茶碗に手を伸ばした。冷たくなったおかゆを一気に飲み込む。粘液が舌をも侵食しているのか、味は一切しなかった。だが、そんなことは省みずに彼はりんごを手に取った。一口で飲み込むにはやや大きく、噛み切ろうとしたそのとき、いやな感覚が口の中に広がり、彼は口にしたりんごを吐き出した。


 前歯がりんごに食い込んだまま、抜け落ちていた。あわてて手を口にあてがうと、上下の歯が抜けて隙間ができていた。まさかと思い、残った歯の一本をつまんで引っ張ってみる。ほとんど何の抵抗もなく、その歯も抜け落ちた。


 まさか、本当に毒が盛られていたのか? 吐き気を催し、腹の中のものをすべてぶちまけた。すえたにおいが鼻腔を刺激する。馬鹿な、馬鹿な……俺はここで死んでしまうのか? 朦朧とする意識の中で、彼は男の笑い声を聞いた。

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