二十七日目
相変わらず、彼は目を覚まさない。人間としての理性を失ったのか、それとも回復に努めているのか。いずれにせよ、今の姿はナメクジに手足が生えたにすぎない、人間とはほど遠いものだった。
食欲はひどく旺盛だった。運び込まれた植物も、研究員がちょっと目を離したすきにきれいに平らげてしまう。人間としての尊厳を失う代わりに、まるですべてを飲み込もうとするかのような貪欲さだった。
食事の量が増えれば、当然排便の量も増える。これまでは意識を失って壁を這い回っている最中に、研究員が部屋の掃除を済ませていた。そのため彼が部屋の悪臭や汚れに悩まされることはなかったが、今となっては掃除をしても追いつかないのが現状だった。自然、部屋は汚物であふれ、耐え難い異臭を放つようになる。ただでさえ湿度が高いこの部屋で、臭いは壁や床にこびりつき、まともな神経なら耐えられるものではなかった。
それでも彼が目覚めたときに備えて、ある程度は部屋をきれいにしておかなければならない。そこで使われるのが睡眠ガスなのだった。壁の上方に設けられた穴からガスが散布され、室内を満たす。それまで我が物顔で部屋中を這い回っていても、これにはひとたまりもなく、全身が弛緩して動かなくなる。彼が壁に張り付いているときは、意識を失わせてから部屋中を清掃し、無理やり床に落としてから目覚めを待つのだった。
なぜこんなことをしなければならないのか、研究員は知らされていない。上からの命令で、やむを得ず行動しているだけだった。ナメクジと化した男の境遇を哀れむよりも、汚物掃除を押し付けられる自身の現状への怒りのほうが先立つのは当然のことだった。
宇宙服のような防護服も鬱陶しかった。普通にウイルスや細菌の研究をするのであれば、それほど体を動かすわけでもないから重装備もそれほど気にはならなかっただろう。だが、この格好で汚物掃除など正気の沙汰とは思えない。呼吸用の酸素ボンベを背負うせいで一層防護服は重みを増し、ストレスのもととなった。
以来、研究員は彼をいじめるようになった。意識のない彼にとってはいじめられているという実感はなかったかもしれないが、傍から見ればそれはいじめ以外の何物でもなかった。棒で殴りつけたり、汚物の塊を彼の顔めがけてぶつけてみたり、研究に支障のない範囲で、爆発寸前だったフラストレーションを解消しようとした。
しかし何より許しがたいのは、彼が何をされても微動だにしないことだった。皮膚を針で刺されても、火を押し付けられても、彼は声ひとつ上げなかった。痛覚を失っているのだからそれも当然なのだが、反応が得られないのは苛立たしいことだった。
この日も、研究員は彼をいじめて遊んでいた。以前は必ず二人一組で任務にあたっていたが、実験体としての価値が薄れたのか、あの日の脱走以来、一人で仕事をさせられるようになっていた。それも不満の種だった。
手にした注射針を、背中に押し付ける。しかし針は突き刺さらず、分厚い体皮にはじかれてしまう。何度繰り返しても同じことで、その間彼は身動きひとつしない。
針の先端がとがっていないのではないか? 研究員はそう考えた。ためしに自分の手のひらに針の先端を押し当ててみる。抗菌用の手袋を二重に装着しているため、針が手袋を突き破ることはない。ワクチンを打ってあるから感染する恐れはないが、万一のことを考え、注射器をもとの容器に戻そうとした。
目を離していたのはほんの数秒だった。注射器から視線を戻そうとしたその時、研究員は後頭部に激しい衝撃を受けてバランスを崩した。意識は失わなかったものの、うつぶせに倒れる形になった。
背中に重みを感じて首をひねり、状況を確かめようとすると、ヘルメットを無理矢理固定された。一瞬、目の焦点の合っていない彼の顔が研究員の視界に入った。そしてヘルメットを引きはがされ、ごきんと何かの折れる音が最後に耳に残った。
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