三日目
いつの間に眠りについていたのだろうか。突然目の前が真っ暗になって、気がつけばベッドに横たわっていた。熱はひいているようだし、どこにも痛みはない。ただ体表が粘液に覆われている、それだけだった。だが、気を失うということはそれだけ重症なのかもしれない。暗澹たる気持ちに包まれて、彼は扉に目をやった。
おそらく、自分が寝ている間に医者が診察をしているのだろう。どうして自分が起きているときに来てくれないのかと苛立たしい気持ちにもなったが、医者と対峙して真実を知らされるのも怖かった。自分が感染症だとしたら、医師もそれなりの装備で部屋に入ってくるだろう。あるいは、ここが牢獄や収容所なら、医師だけでなく警備員や衛兵もついてくるはずだ。要するに、相手の格好を見ただけで自分の置かれた立場がはっきりしてしまうのだ。
知らずにいることよりも、現状を受け入れることのほうが恐ろしかった。記憶をなくした自分にとって、受け入れるべきことはあまりにも多すぎる。いっそ楽になりたかった。自殺という単語が頭をよぎる。
それにしても、と彼は思う。ここが地下なのは間違いあるまい。なぜかはわからないが、感覚的にわかる。だが、冬が近づいているというのに寒くないのはどうしてだろう。床も壁もコンクリートむき出しなのに、冷たさを感じることはない。かといって床暖房がついているわけでもなさそうだ。よほど温度管理が徹底されているのだろうか。耳を澄ましても空調の音は聞こえず、荒い呼吸音だけが耳に残った。
そもそもここはどこなんだろうか。記憶をなくしているとはいえ、自分が日本人だということは分かる。だが、ここが日本だとは限らないではないか。南半球のどこかの国だとしたら、この時期でも暖かいはずだ。
疑念が疑念を生み、不安は膨れ上がっていく。それに呼応するように体中からじっとりと汗が噴き出し、流れ落ちることなく表皮にとどまる。
ベッドから離れ、彼は裸足のまま部屋の中をうろうろと歩き回った。足の裏も粘液で覆われているのか、歩を進めるたびにニチャニチャといやな音が部屋に響く。
体を動かしていれば、何か思いだすかもしれない。そう思ったのだが、まったく意味がなかった。思い出そうとすればするほど、頭の中の空白はより鮮烈に、色彩を飛ばしてしまう。真っ暗ではなく、真っ白なのだ。まるで何かに塗りこめられたかのように。
不意に、つま先に違和感を覚えて立ち止まった。右足の小指をベッドの脚にぶつけたらしい。その場に胡坐をかき、ぶつけた小指を調べてみる。
爪がはがれていた。赤く血がにじんでおり、肉がむき出しになったところを触ってみても、何も感じなかった。言いようのない不安にとらわれ、指先を仔細に観察するが、骨が折れているわけではなく、ただ痛みを感じないのだった。
なぜ痛みを感じないんだ? 手の甲を強くつねってみても、何も感じない。内出血するまで爪を食い込ませても、何も感じない。体から、痛覚が失われているのだった。
痛覚だけではないことに、やがて彼は思い至った。なぜ寒さを感じなかったのか。暖房が効いているのではなく、温度を感じていないだけなのだ。額に手を当てて熱がないと感じたのも、自分の手が、熱をとらえていなかっただけなのではないか。彼はふらふらと扉に近寄り、拳を打ちつけた。何度も何度も、手の皮が破れ、血が噴出してもそれを止めなかった。やがて意識を失った。
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