第21話 奈々子


 大粒の雪が舞い落ちる、クリスマスイブの産業道路。

 車線をふさいでいた車両がいなくなると、サーキットを彷彿させる、いつもの景色が戻ってきた。同時に歩道から人の姿が消え失せる。奈々子一人を除いて。


 歩道でもがいているチワワを見つけた奈々子は口と脚に巻きつけられた釣り糸を外そうとしたが、ほどくことも切ることもできなかった。

 仕方なくチワワを抱き上げ、痛めた右足を引きずりながら近くのコンビニへと向かった。コンビニならはさみぐらい置いていると思ったから。


 全身雪まみれで靴も履いていない女の子が、薄汚れた犬を抱えて店に入って来たことで、店員は露骨に迷惑そうな顔をする。

 しかし、奈々子が何度も頭を下げたことで、はさみで釣り糸を切断してくれた。

 丁寧に礼を言うと、奈々子は再びスタジアムの方へ歩き始める。ランニングウェアを身にまとった陽太を探すために。


 モヘアのセーターでチワワをくるんで、白い息を吐きながら人気のまばらな通りを歩いた。

 水分を含んで重くなった前髪が目の前に垂れ下がり、ポタポタとしずくがこぼれ落ちる。

 靴を履いていないことで足がかじかんでほとんど感覚が無くなっていた。おかげで右足の痛みを感じることもなかった。


「陽太、どこへ行ったの?」


 立ち止まって宇宙そらを見上げると、雪の降りがさっきよりも激しく感じられた。真っ暗な空間の大部分が白く彩られ、自分の吐息さえすぐに見えなくなる。

 不意にチワワが心細そうに鼻を鳴らす。


「ごめんね。付き合わせちゃって……もう少しだけお願い」


 奈々子はチワワを胸のあたりでしっかりと抱きしめる。

 そのとき、奈々子は違和感を覚えた。

 街のノイズが消えてあたりが静寂に包まれている。

 目に映っているのはセピア色の景色。すべて動きが止まっている。

 それは、少し前に陽太といっしょに見た景色だった。


 誰かの手が右肩に触れている感触があった。


「陽太なの?」


 慌てて振り返る奈々子。

 しかし、そこにいたのは陽太ではなく一人の女性だった。


「奈々子ちゃん、ゴメンね。陽太くんじゃなくて。おねえさんはサンタクロース。特別じゃない、どこにでもいる、普通のサンタさん」


 頭の先からつま先までサンタの衣装をまとった、その女性は口角を上げて笑った。

 大きな青い瞳に長いブロンドの髪。ツンと上を向いた鼻に大きめの口。年は奈々子よりかなり上に見えるが、細身で背が高く、顔立ちがとても美しい。


「サンタさん? でも、どうして私の名前を知っているんですか?」


「あら、意外と冷静。さすがは世界を席巻するスプリンターね。肝が据わってるわ」


 女性はおどけた様子でチワワの顔を覗き込む。セピア色になったチワワは作り物のようにピクリとも動かない。


「自己紹介がまだだったね。おねえさんの名前は『マライア・マルトリッツ』。職業は、さっきも言ったけれど、サンタクロースね。そうそう、奈々子ちゃんのことずっと見てたの。もちろん陽太くんのこともだよ」


「見ていた? わたしと陽太のことをですか?」


「そうよぉ。奈々子ちゃんがクリスマスイブの日にとった行動や、奈々子ちゃんがいなくなってから半年間、陽太くんがしてきたことを」


 流暢りゅうちょうな日本語で淡々と話すマライア。

 黙って聞いていた奈々子だったが、最後のフレーズに思わず首を傾げた。


「わたしがいなくなった? わたし、いなくなったりしていません。誰かと勘違いしているんじゃないですか?」


「あらぁ、早速おねえさんの名前覚えてくれたんだ。うれしいわぁ……じゃなくて、ごめん、ごめん! 話を端折はしょっちゃったね。まずはそこをしっかり説明しないといけないのに。そうだ! 日本では『百聞は一見に如かず』なんて言うよね? 奈々子ちゃん、おねえさんといっしょに見に行かない?」


「見に行く? 何をですか?」


 奈々子の問い掛けにマライアのブルーの瞳が鋭い眼光を放つ。


「十二月二十四日、奈々子ちゃんが死んだ後、陽太くんが何をしてきたか――をだよ」


「死んだ? わたしが? わたしが死んだですって!?」


「正確に言えば『一度死んだけど生き返った』かな。はい。これ右手にめて」


 動揺を隠せない奈々子にマライアは右手用の赤い手袋を差し出す。


「この手袋をめると、おねえさんが奈々子ちゃんに触れているのと同じ効果があるの。仕組みはよくわからないけれど、例えるなら、そうねぇ……深い海に潜るときの潜水服とか、火災現場に行くときの防火服みたいなものかな。

 今から奈々子ちゃんとおねえさんは『別の世界』へ行くの。で、この手袋が安全装置の代わりってわけ。奈々子ちゃんの安全はおねえさんが保障する。だから、ちょっと付き合って」


 現実主義者で他人に対して警戒心を怠らない奈々子。普段であれば、マライアの現実離れした、胡散臭うさんくさい話に耳を貸すことはなかっただろう。ただ、そのときの彼女は普段の彼女ではなかった。

 目の前にいた陽太が突然消えてしまったことで、自分の理解を超えたが起きていることを疑っていた。そして、タイミングを計ったようにマライアが現れたことで、二つの出来事がどこかでつながっているような気がしてならなかった。

 奈々子は思った。「マライアの話を聞くことで再び陽太に会えるのではないか」と。


「わかりました。マライアさんといっしょに行きます」


「うれしいわぁ。じゃあ、気が変わらないうちにやっちゃうよ。そうそう、チワワちゃんは置いていってね。逃げたりしないから」


 マライアは奈々子が手袋をめたのを確認すると、ピンクのマニキュアが塗られた右手の人差し指で、手袋の甲に浮き出た端末を素早く操作する。


「準備完了! じゃあ、いくよぉ。Gute Reise!(良い旅を)」


 その瞬間、あたりは真っ暗な闇に包まれた。


 ★★


 セピア色の世界に奈々子とマライアが戻ってきたのは、二時間が経とうとしていた頃。ただ、二時間というのはあくまで二人が体感した時間であって、セピア色の世界の時間は一秒たりとも進んでいない。


 奈々子はアスリートが走り終えたときのような、荒い呼吸をしながらその場にへなへなとへたり込むと、震えが止まらない身体を両手で抱きしめた。

 このまま二度と立ち上がれない気がした。それは右足にケガを負っているせいではない。

 DMCを使って次元の移動を繰り返したことで、奈々子は自分の身に何が起きたのかを理解した。そして、陽太が自分を助けるために背負い込んだものの重さを身を持って痛感した。


「マライア……さん……」


 奈々子は虚ろな眼差しをマライアの方へ向ける。


「わたしには何ができるんだろう? 陽太に何をしてあげられるんだろう?」


 思い詰めたような表情と言葉が奈々子の苦悩を物語っている。


「陽太くんのサンタ試験はすでに終了している。六月三十日午後四時二十八分をもって彼は正式にサンタになった。この結果を取り消すことはできない。それは、陽太くん自身が望んだことでもある」


 マライアは目に入りそうな前髪を左右にかき分ける。


「わかってる。でも、このままじゃ悲し過ぎる。陽太はわたしの代わりに犠牲になったようなもの。陽太が辛い思いをしているのに、わたしだけが好き勝手やるなんて耐えられない。いっそのこと陸上を止めて――」


「――ダメ。それは絶対にダメだよ」


 語気を荒らげて奈々子の言葉をさえぎると、マライアは首を横に振る。


「陽太くんは自分の存在が消えてしまうことがわかっていながら、少しでも速く走ろうとした。はたから見れば、それは自虐行為以外の何物でもない。陽太くんもそれはわかっていた。でも、止めなかった。そして、タイムが10秒71を切ったときの喜びようは半端じゃなかった。なぜだかわかるよね?」


 奈々子はグッと唇を噛む。


「奈々子ちゃんと交わした約束を果たすことができたから。奈々子ちゃんの夢を守ることができたからだよ。今奈々子ちゃんがすべきこと。それは、陽太くんの気持ちに応えること。彼の行動を無駄にしないことだよ」


 マライアの言葉に奈々子の顔つきが変わる。食い入るような眼差しで、マライアの顔を睨みつける。


「マライアさん、さっき『サンタは不特定多数の人に無償の愛を捧げる存在だ』って言ったよね? 『だから陽太が選ばれた』って言ったよね?」


「ああ、おねえさんはそう言った。そのとおりだと思うからね」


「わたしもだったらそう言った。でもならそうは言わない」


「なぜ? 以前と今とで陽太くんの何が違うの?」


 奈々子の言葉にマライアは首を傾げる。


「わたし、思うの。他人ひとを幸せにできる人は、自分のことを幸せだと思える人だって。幸せを実感できない人の行為は偽りだって。だから、今の陽太はサンタとしてはどうかと思う」


「ふ~ん。一理あるわねぇ。ただ、陽太くんにサンタを辞めてもらうことはできないよ。彼はJTで適任だって認められたんだから」


「今さらそんなこと言われても」と言った顔をするマライアに、「違う。違う」と言わんばかりに奈々子は何度も首を横に振る。


「わたしが言いたかったのはそんなことじゃないの。陽太は与えられたことは最後までやり遂げる。どんなことがあっても途中で投げ出したりしない。ただ、陽太の気持ちを考えるとすごく辛い。胸が張り裂けそうになる。周りにはたくさんの人がいるのに独りぼっちの世界。それは経験した者でないとわからない」


 奈々子の脳裏に小学生のときの記憶――決して思い出したくない、忌まわしい記憶が蘇る。


「じゃあ、奈々子ちゃんはどうするのがいいと思うの? 陽太くんのために。おねえさんに教えてくれない?」


「陽太の気持ちとわたしの気持ち。その両方を同時に満たす方法が一つだけある。マライアさんもわかっているんでしょ?」


 奈々子は何かを悟ったような表情を浮かべる。その真剣な眼差しに決意の色が見て取れる。


「どういう意味かしら?」


「マライアさんがわたしの前に現れたのは決して偶然なんかじゃない。わたしの意思を確認するため。わたしが後継者としてふさわしいかどうかを試すため――違いますか?」


 奈々子の言葉にマライアは驚いた表情を見せる。

 しかし、すぐにそれはとびきりの笑顔へと変わる。


「おねえさんの歳、ばれちゃった? 外見だけなら三十代でも通るんだけどなぁ……さすがは奈々子ちゃん。おねえさんが見込んだだけのことはあるね。面接試験は合格。で? 奈々子ちゃんはどうしたい?」


 マライアの意味あり気な微笑に、奈々子は視線を宇宙そらに向けて大きく深呼吸をする。


「わたし、サンタになる。いつも陽太のそばにいてあげたいから」



 つづく

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