第2話 転校生


「夏目奈々子です」


 三学期の始業式の朝、陽太のクラスに転校生がやってきた。

 サラサラのショートヘアと雪のように白い肌。まつ毛の長い切れ長の目。どれもあのときと同じ。違うところと言えば、目の下にあった、青いあざが目立たなくなったことぐらい。


 この時期の転校生はとても珍しい。卒業式まで三ヶ月もないことで、子供が新しい環境に馴染めないまま卒業するのを憂慮する親が多いため。

 仕事の都合で引っ越しを余儀なくされる場合、卒業式が終わるまでの間、親が単身赴任することで転校を回避するのが一般的だ。


「また会えたな。よろしくな」


 体育館での全校集会が終わって教室へ戻る途中、陽太は奈々子に声を掛けた。


「よろしく」


 陽太の顔を横目でチラリと見ると、奈々子は愛想なく答える。素っ気ない態度は相変わらず。ただ、それは陽太に限ったことではなかった。

 最初は奈々子に気を遣っていたクラスメイトたちも三日も経つと誰も寄りつかなくなった。他人を寄せ付けない、冷たい雰囲気をかもし出す奈々子に嫌気が差したようだ。


 さらに悪いことに、クラスメイトの大部分が私立の受験を控えていたことで、担任の教師は受験生に負荷をかけないことを第一に考えた。孤立した奈々子をクラス全体でフォローする考えなどなく、奈々子のことを邪魔者扱いしているのは明らかだった。


「夏目、学校には慣れたか? 困ったことがあれば何でも言えよ」


「別にない」


 奈々子がクラスで孤立する中、陽太は声を掛け続けた。

 担任から面倒をみるよう言われたわけではない。お節介な性格もあるだろうが、なぜか奈々子のことを放っておけなかった。

 恋愛感情が芽生えたわけではない。友だちとも少し違う。言葉で言い表すのは難しいが、「好敵手ライバルと憧れの人を足して二で割ったような存在」というのが近いかもしれない。


★★


「私立中学には行かないの?」


 一月が終わろうとしていた、ある日の放課後、グラウンドでストレッチをしていた陽太に奈々子が話し掛けてきた。

 視線を合わせることのない、つっけんどんな物言いは相変わらず。ただ、奈々子の方から話し掛けてきたのは、それが初めてだった。


「行かねぇよ。俺は地元の公立に行く」


「全国五位なら有名校から誘いがあってもいいのに」


「何校かあった。でも、断った」


「どうして? 条件が合わなかったの?」


 それまでの二人の会話と言えば、挨拶程度の短い言葉を交わすだけの味気ないものばかり。お世辞にも「コミュニケーションが図られている」とは言えなかった――しかし、その日は違った。

 普段は陽太の問い掛けに面倒臭そうに答える奈々子が、言葉の一つ一つをしっかりと受け止めているようだった。


「関西の中高一貫の私立へ行こうかどうか迷ってた。全国大会の常連校で中学も高校も優勝してる。もちろん学費や寮費はタダだ」


「行けば良かったのに。もっと速くなりたいんでしょ?」


「速くなりてぇ。日本代表になってオリンピックや世界陸上せりくで戦ってみてぇ」


「じゃあ、行くべきよ。どうして断ったの?」


 陽太は口をへの字に結んで視線を足元へ落とす。会話が途切れて二人の間に沈黙が訪れる。

 小さく息を吐くと陽太はゆっくりと顔を上げる。真剣な眼差しが奈々子に向けられる。


「夏目、お前だ。お前が俺の前に現れたからだ」


「わたしが……? どういうこと?」


 予想だにしない言葉に、奈々子は陽太の顔をしげしげと見つめる。


「お前といっしょに走ったとき、見えたんだ――俺の目標が」


「目標?」


「そうだ。はっきり言って、あのときのお前はこれまで走ったどんな奴よりもすごかった。負けたときは悔しくて堪らなかったけど、すごくうれしかった。しばらく心臓がドキドキいってた。こんなに近くに、こんなに凄い奴がいるのがわかったから」


 陽太は照れくさそうに笑いながら、視線を暮れかかる空へ向ける。


「あのとき、言ったよな? いつかお前より速く走ってやるって。あれが俺の目標だ。お前は陸上部に入っていないと言った。大会にも出たことがないと言った。だから、俺は地元の中学に行ってお前を追いかけることにした……あっ、お前が地元の公立中学へ行くって勝手に決めちまったけど、大丈夫だよな?」


 少しはにかんだ様子でうれしそうに話す陽太に、奈々子は小さく首を縦に振る。


「夏目、頼みがある。中学に行ったら陸上部に入ってくれ。俺といっしょに走ってくれ。頼む! このとおりだ!」


 深々と頭を下げる陽太に奈々子は戸惑いを隠せなかった――陽太が強豪校の誘いを断った原因が自分にあったから。

 クリスマスイブにいっしょに走ったことで、自分が陽太の人生を変えてしまった。こんなことになるなんて思っても見なかった。


「顔を上げて」


「――じゃあ、陸上部に入ってくれるのか?」


 顔を上げながら陽太が興奮気味に言う。


「それは無理。わたしみたいなのが集団に馴染めるわけがない。クラスで孤立しているのを見てもわかるでしょ? わたしがいたら雰囲気も悪くなるしチームワークも乱れる。厄介者なの。わたし」


 奈々子は伏し目がちにポツリと呟く。すると、陽太の顔に笑みが浮かぶ。


「でもよ、俺とは普通に話ができるようになったじゃねぇか。殻に閉じこもっていたら気の合う奴とも友だちになれやしねぇよ。偉そうなこと言ってるけど、俺だってクラスやクラブの奴らが全員好きってわけじゃねぇ。友だちなんて呼べるのもせいぜい二人か三人だ。だから、お前も気にするな。大事なのは『走るのが好きかどうか』だ。好きなんだろ? 走るの」


 奈々子の胸がトクンと音を立てる。

 慌てて顔を上げると、奈々子は真剣な表情で陽太の顔をじっと見つめた。


「好き。すごく好き。嫌なことがあるといつも走ってた。走ったら嫌なことが見えなくなるから」


 無表情なのは相変わらず。ただ、声のトーンが上がっている。


「それならいいじゃねぇか。走る目的は違っても、俺もお前も走るのが好きだってことに変わりはねぇ。なぁ、知ってるか? どうしてスプリンターが速く走りたがるのか」


 陽太の唐突な質問に奈々子は首を傾げる。陽太はしたり顔で続ける。


「速い奴らには見えるんだよ――俺たちには見えないが」


「何か?」


「そうだ。速い奴らがよく口にする言葉だ……。夏目、お前がいれば俺にも見える気がする。いや、絶対に見える。いっしょに見ようぜ。見えない何かをよ」


 奈々子は胸の鼓動が速くなっているのを感じた。まるで長い距離を全力で走り終えたときのようだった。「見えなかったものが見えるようになる」。頭の中でそんなフレーズを繰り返した。

 これまで「見たくないものを見えなくするため」に走ってきた奈々子にとって、陽太の言葉はカルチャーショックだった。高揚感に似た、不思議な感覚を抱いている自分に戸惑いを隠せなかった。


「考えさせて」


 視線を逸らしてポツリと呟くと、奈々子は足早にその場を後にした。

 

 靴のひもを結び直して静かに立ち上がる陽太。両足の太ももの後ろを二度三度パンパンと叩いて、オレンジ色に染まるグラウンドを走り始めた。

 グラウンドを吹き抜ける、冬の風がどこか心地良く感じられる夕暮れだった。



 つづく

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