第1話 イブの少女
★
陽太が初めて彼女と出会ったのは小学六年生のクリスマスイブ。午前十一時二十分。二学期の終業式が終わって一時間が経とうとしていた頃。ちらちらと粉雪が舞い落ちる、小学校のグラウンドには陽太以外誰もいなかった。
濃紺のランニングウェアを身に
「陸上部なの?」
背中から無機質な声が聞こえた。
身体を起こして後ろを振り返った陽太の目に、ワインレッドのダッフルコートに紺色のミニスカートと白いタイツを
茶色みがかったサラサラのショートヘア。雪のように白い肌。まつ毛の長い切れ長の目。無表情ながら整った顔立ち。右目の下に青い
「そうだけど、何か用か?」
彼女の言い方が気に障ったのか、陽太はどこかつっけんどんに答える。
「速いの?」
陽太の態度に我関せずと言った様子で彼女は淡々と続ける。
「県大会の100メートルで優勝した。全国大会は五位だった」
「競争しよう。100メートルで」
そう言うが早いか、彼女はダッフルコートと白いセーターを脱いで、ブラウスの袖を
「ちょ、ちょっと待て! 何勝手に決めてんだよ。いきなり知らねぇ奴と走るなんておかしいだろ? それに……お前が俺に勝てるわけがねぇし」
「勝てるわけがない? 大した自信ね。わたしも負けるつもりはない」
彼女の口から強気な言葉が発せられる。陽太は思わず絶句した。
女の子の年恰好は陽太と同じぐらい。陽太が全国で五指に入るスプリンターだということも知っている。常識で考えて勝てるわけがない。ただ、自信に満ちた態度が気になったのも事実。結果は見えているにもかかわらず、陽太は気持ちが
「お前こそ大した自信だな。わかった。勝負してやるよ。そこの赤い旗がスタートライン。中間地点には目印の赤いタオルが置いてある。それから、ゴールはあそこの白い水筒があるところだ。わかるか?」
「吉野陽太――あなたの名前が書かれている水筒ね」
陽太は目を丸くする。水筒までの距離は百メートル以上ある。にもかかわらず、彼女はそこに書かれた文字を、まるで教室の黒板に書かれた文字を読むようにサラリと読んでみせた。
「お、お前、水筒の字が見えるのかよ!? 視力いくつだよ!?」
「そんなことはどうでもいい。早く始めよう」
陽太の質問に答えることなく、無表情の彼女は無機質な言葉を並べる。
「愛想のねぇ奴だな。じゃあ、スタートの合図はお前が口で言ってくれ」
陽太は小さく息を吐いて「やれやれ」といった表情を見せる。
「あなたが言って。合わせるから」
屈伸運動をしながら言い放つ彼女。視線は水筒の方を向いている。
「お前、わかってるのか? 『ハンデをやる』って言ってるんだ。俺が合図をしたらお前が不利になるんだぞ?」
「それでいい。走るときに無駄なおしゃべりはしたくないから」
陽太は視線を逸らしてふーっと息を吐き出す。
「わかった。負けたときの言い訳にするんじゃねぇぞ。合図は『位置について・よーい・どん』でいく。間はほとんど置かねぇからな」
★★
分厚い、灰色の雲に覆われた空から白いものが落ちている。ただ、積もるほどの量ではなくグラウンドの土の色はほとんど変わっていない。足元は滑ることなく適度なクッションが効いている。コンディションとしては悪くない。
ゆっくり腰を下ろしてスタートラインに両手をつく二人。
それぞれが吐き出した白い息が風に乗ってユラユラと立ち上る。彼女の方を横目でチラリと見る陽太。彼女は下を向いて目を
「位置について・よーい・どん!」
スタートの瞬間、陽太は彼女よりも身体一つか二つ前に出た。
自分のタイミングでスタートを切ったのだから当然と言えば当然。もう少し言えば、彼女はクラウチングスタートに慣れていない様子だった。
陽太にとっては明らかに有利なレース。ただ、スタートの合図を譲ると言ったのに断られたのだから仕方がない。彼女の希望を尊重した結果であって、決してアンフェアではない。
走り出してからも負ける気はしなかった。フットワークが軽く加速もスムーズだった。
赤いタオルが置かれた中間地点を通過したとき、陽太の視界に彼女の姿はなく、腕の振りや歩幅を確認する余裕さえあった。
県大会で優勝したスプリンターが同年代の女の子を相手に本気を出すなんて大人気ないと思われるかもしれない。しかし、勝負を挑んできた相手に手加減を加える方がかえって失礼に当たる。
そんな思いを巡らせながら、陽太は残り二十メートルのところでギアをトップに入れる――そのとき、陽太は信じられない体験をする。
死角から現れた人影が並ぶ間もなく陽太を抜き去る。驚いた表情を浮かべて必死に食らいついた。しかし、その差は開く一方だった。
彼女は
遅れてゴールした陽太は、膝に両手をあてて前屈みの状態で自分の手をジッと見つめた。
『……こいつ……小学生の走りじゃねぇ……中学生でも勝てねぇかも……』
荒い呼吸をしながら陽太は心の中で呟く。目の前で起きたことが信じられなかった。
視線をゆっくりと彼女の方へ向けると、心臓の鼓動がさらに速くなる――視線の先には、目を閉じて天を仰ぐ彼女の姿があったから。
雲間から漏れる光が粉雪を金色に照らし、無数の光の粒が彼女の身体に降り注いでいる。優しい笑みを
口をぽかんと開けて、見入るように彼女を見つめる陽太。そんな視線に気づいたのか、彼女はクルリと背を向ける。
「じゃあね」
何もなかったのように、彼女は、
「待て! 待ってくれ! 俺は吉野陽太! 横浜山下小学校の六年だ! お前は誰なんだ!? どこかの陸上部なのか!? 教えてくれ!」
二人だけのグラウンドに、陽太の興奮したような声が響き渡る。
「そんなこと聞いてどうするの?」
足を止めた彼女は背中越しにポツリと呟く。
陽太はその背中に真剣な眼差しを向ける。
「俺はこのままでは終わらねぇ! 必ずお前に勝つ! 絶対にお前より速く走ってやる! それまでお前の顔と名前は忘れねぇ! だから、頼む! 教えてくれ!」
身体を震わせながら陽太は駄々っ子のように叫ぶ。
彼女は「やれやれ」といった様子で小さく息を吐くと、ゆっくりとこちらを振り返った。
「
それだけ言うと、奈々子は再び陽太に背中を向ける。
「お前、どこかの陸上部なのか? 大会に出たことあるのか?」
スタート地点の方へ歩き出した奈々子に陽太は大声で問い掛ける。
「クラブなんか入ってないし大会にも出たことない。でも、ずっと走ってきた。走っていると嫌なことが見えなくなるから。そこは自分だけの世界だから――」
「奈々子~!」
校舎の方から奈々子の名前を呼ぶ声が聞こえた。職員玄関の前で一人の老婦人が奈々子に向かって手を振っている。
スタート地点に置かれたセーターとコートを素早く拾い上げて、老婦人のもとへと駆け寄る奈々子。二言三言、言葉を交わすと、老婦人が陽太に向かって会釈をする。
二人の姿が見えなくなってからも、陽太はしばらくその場に
つづく
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