第5話 温かい時間

 

 一月下旬の日曜日。人気ひとけが疎らな海沿いの国道に、アスファルトを蹴り上げる、タッタッタッという、小気味良い音が響く。


 音の主は、真新しいランニングウェアに身を包んだ、ボーイッシュな少女。

 茶色味がかったサラサラの髪をフワリとなびかせながら歩道を走る様は、とても楽しそうでキラキラ輝いている。ところどころに水溜りができてはいるが、弾むような足取りが乱れることはない。


「天気、何とかもちそう」


 長いまつ毛に縁取られた、涼し気な瞳がかすかに微笑む。

 灰色の雲の切れ間からは青空が覗き、明るい光がこぼれている。


 細身の身体にまとっているのは、ラズベリーレッドが鮮やかな、フード付きのジャケットと黒いショートパンツ。それから、幾何学模様が入った、濃紺のレギンスに赤いランニングシューズ。

 雨が降ったり止んだりの愚図ついた天気だったが、前の日に買ってもらった、ピカピカのウェアとシューズで走りたくて、祖母が止めるのも聞かず家を飛び出した。「おばあちゃん、ごめんなさい」。心の中でひたすら謝りながら。


 この四年間、毎日のように走っていた。

 ただ、そのとき身に付けていたのは、着古した普段着に穴が開きそうなボロボロの運動靴。今とは雲泥の差があり、まるで魔法を掛けられる前と後のシンデレラみたいだった。


 左手の手首に巻かれたランニングウォッチの表示は「10:52」。家を出てからかれこれ一時間が経とうとしていた。

 本音を言えば、もっと走っていたかったが、祖母に昼までに帰ると約束した手前、後ろ髪を引かれる思いでクルリと向きを変えた。


 国道を一本入ると道幅が急に狭くなり、昔ながらの商店が軒を連ねる。いわゆる問屋街で日曜日はほとんどの店が閉まっており、人のいる気配は感じられない。

 不意に後方から一台の軽自動車が近づいてくる。

 少女はチラリと後ろを振り返ると、歩を緩めて道路の端に身を寄せる――が、次の瞬間、想定外の出来事が起きる。


 道路にできたわだちに軽自動車のタイヤがはまり、溜まっていた泥水が噴水のように舞い上がった。少女は頭から水をかぶり、真新しいウェアは泥塗どろまみれになる。


「ごめんなさい! 怪我はありませんか……って、大変!」


 軽自動車から下りてきたのは、ワークシャツにジーパンという、ラフな格好の女性。ずぶ濡れになった少女を見て「取り返しのつかないことをしてしまった」といった表情で口を両手で覆う。


「どうしよう……そうだ! 今からあたしの家まで来てちょうだい!」


 突然の申し出に少女は顔を強張こわばらせる。

 

「大丈夫。もともと雨で濡れてたから。それに家も近くだし」


 人見知りの激しい少女は何とかその場をやり過ごそうとする。しかし、女性がそれを許さない。


「ダメ、ダメ! 風邪引いちゃうよ! それに、このまま帰すなんて『サンシャイン・クリーニング』の名折れだもの。汚点が残っちゃう。クリーニング屋だけに汚点を残すのはマズイ……それは置いといて、あなたとその服、どちらも元通りにさせてもらわないと気が済まないの。一時間でいいからいっしょに来て! お願い!」


 長い髪を頭の後ろで一つに束ねた女性は、両手のてのひらを合わせて深々と頭を下げる。しかし、少女は申し出を無視してその場を離れようとする。


「わかった! あたしが怪しいおばさんに見えるんでしょ? 確かに誘拐犯だって言われてもおかしくない状況だわ……。こうしましょう! 私の携帯からあなたがお家の方に電話をするの。その後、あたしが今の状況を説明してあなたを連れて行くことをお願いする。もしお家の方がダメだって言ったら諦める。それならいいでしょ?」


 そう言うが早いか、女性はポケットから赤色の携帯電話を取り出す。

 少女は訝しい表情を浮かべた。なぜ女性がそこまでするのか理解できなかったから。責任感が強いと言うよりお節介に近い。ただ、このままではらちが明かないことから、とりあえず祖母に電話を掛けることにした。彼女のことを理解してくれている祖母であれば、女性の申し出を断ってくれると思ったから。


「おばあちゃん? 奈々子です。今近くの問屋街にいるんだけど、おばあちゃんと話がしたいっていう人がいるの。ちょっと代わるね」


 携帯を受け取った女性は丁寧な口調で状況を説明する――が、突然驚いたような声をあげる。


「夏目……先生……? 夏目先生ですか!? ご無沙汰しています! 以前、先生のお宅でお茶を習っていた吉野です! サンシャイン・クリーニングの『吉野よしの頼子よりこ』です……! と言うことは、この子は先生のお孫さんなんですね? なおさらこのまま帰すわけにはいきません!」


 口から心臓が飛び出しそうになった。

 女性が祖母と知り合いだったこと以上に女性の名字が「吉野」だったことに驚きを隠せなかった。珍しい名字ではないことから単なる偶然なのかもしれない。しかし、女性には陽太の面影があるような気がした。よくよく考えると、お節介なところもそっくりだ。


 女性が再び携帯を奈々子に手渡す。どうやら話がまとまったらしい。

 電話に出ると、祖母がいつもの穏やかな口調で言った。


「頼子さんが家まで送ってくれるそうよ。今日のお昼は少し遅めにしましょう。ご迷惑を掛けないようにね」


★★


 軽自動車が「サンシャイン・クリーニング」と書かれた店の前で止まる。シャッターが下りているところを見ると休業日のようだ。

 吉野頼子は車の中でもしゃべり続けていた。ただ、その表情や話しぶりから悪い人でないのはわかった。彼女には六年生の息子がいて、朝から父親といっしょに室内陸上の大会を観戦に行っているらしい。奈々子は彼女が陽太の母親であることを確信する。


「――Tシャツとジャージの上下、置いておくね。男物だけど我慢してちょうだい。一時間以内にあなたの服はピカピカにするから。プロの威信にかけてね。そうそう、下着はお風呂を出る前に乾かして脱衣所に置いておくから」


 奈々子が湯船に浸かっていると脱衣所から頼子の声がした。汚れた服はすでにクリーニング中のようだ。


 まさか陽太の家に来ることになるとは思いもよらなかった。しかも、風呂に入るなんてあり得ない。脱衣所に用意された着替えはおそらく陽太のものだろう。思わず恥ずかしさが込み上げる。

 ただ、奈々子は恥ずかしさ以上に戸惑いを感じていた。普段から他人との間に壁を作って心を開くことのない彼女が、初めて訪れる場所でリラックスしているのがその理由。


『吉野くんの家だから?』


 頭の中にそんな言葉が浮かんだとき、入浴剤の柑橘系の香りが奈々子の身体をスッポリと包み込む。冷えた身体がお湯に馴染んできたのか、身体中がポカポカしている。


『吉野くんもこのお風呂に入るんだ』


 目をつむると、陽太の姿がぼんやりと浮かぶ。


『吉野……くん?』


 奈々子の脳内で陽太のビジョンが再現される。最初は顔だけだったが、次第に視点が首から下へと移って行く。同時に、細部か鮮明になっていく。風呂だけに当然服は着ていない。


「わ、わたしったら、なに考えてるの!?」


 思わず大きな声を出してバスタブの中で立ち上がった。

 顔のあたりが熱い。呼吸が苦しい。お湯にのぼせたわけではない。


「奈々子ちゃん、どうかした? そっち行こうか?」


 声を聞きつけた頼子が廊下から脱衣所を覗き込む。


「な、なんでもないから! 大丈夫だから! すぐ出るから!」


 頼子の言葉に動揺しながら、奈々子は再び湯船に身体を沈める。俯くようにお湯に口をつけるとブクブクっと小さな泡がわき立つ。

 言葉にならない言葉を発しながら、奈々子はポカポカとドキドキがいっしょになった感覚に戸惑いを隠せなかった。


★★★


 風呂から上がると、脱衣所のバスタオルと着替えの上にメモが置いてある――「廊下を左に行ったつきあたりの部屋に来てね」

 メモに記された場所へ行くと、そこはダイニングキッチンとつながった、広々としたリビングルーム。

 壁には額縁。サイドボードには写真立て――部屋の至るところに写真が飾られている。中には紙粘土で装飾された、手作りのものもある。どの写真にも陽太が写っており、順番に見て行くと彼の成長過程がうかがえる。


 不意に奈々子は首を傾げる。

 陽太がサンタの衣装を身につけている写真の中に、海水浴場や桜の木の下といった、クリスマスとは程遠いものが何枚か見られたから。


「違和感ありありでしょ? そのサンタが息子の陽太なの」


 キッチンの暖簾のれんをくぐって、二人分のアイスティーとアップルパイをトレイに乗せた頼子が現れる。


「どうして春や夏にサンタの格好をしているの?」


 奈々子の問い掛けに、コースターとフォークを並べながら「その疑問は当然ね」といった顔をする頼子。


「小さい頃からサンタが好きだったの。一年生のクリスマスあたりかな。特に思いが強くなったのは……陽太にとってサンタはヒーローなの。あの子の言葉を借りれば、みんなの願いや夢を叶えるのが『最高にカッコイイ』んだって。六年生になっても『俺はサンタになる』なんて真面目に言ってるのよ。おかしいでしょ?」


 奈々子にアイスティーとアップルパイを勧めながら、頼子は小さく笑う。

 ただ、その笑いは陽太のことを馬鹿にしたものではなく、彼のことを誇らしげに思うものに見えた。

 家族の写真で埋め尽くされたリビングルームと息子のことで心から笑顔になれる母親。奈々子は陽太が温かい家庭で育ったことを感じ取った。そして、羨ましく思った。


「でもね、あの子は口だけじゃないの」


「口だけじゃない? サンタの仕事でも手伝ってるの?」


 奈々子が訊き返すと、頼子はうんうんと何度も首を縦に振る。


「あの子はね、大切な人の夢や願いを自分で叶えようとするところがあるの。いつだったか、あたしが買い物の帰りに母の形見のペンダントトップを落としたことがあってね。大事なものだったから思わず涙が出ちゃったの。ただ、小さなもので、どこで落としたのかもわからなくてほとんど諦めてた。心の中で母に謝りながらね。でも、あの子は諦めていなかった。きっと、あたしが陰で泣いていたのを見てたんじゃないかな?

 暗くなってから全身泥だらけになって帰ってきて、汚れた手であたしにペンダントトップを渡してくれたの。『どこにあったの?』って聞いたら『ドブの中にあった』って。『どうしてそこにあるのがわかったの?』って聞いたら『わからなかったから全部探した』だって」


 頼子はストローでレモンティーをかき混ぜながら感慨深げな表情を浮かべる。


「今あの子が一生懸命になっているのは陸上の短距離ね。今でこそ県大会の優勝者だけれど、二年生までは運動会ではいつもビリだったのよ」


 頼子の言葉に奈々子のフォークを持つ手が止まる。


「どうして……? どうしてビリの子が県で一番になれたの?」


 興味津々といった様子の奈々子。頼子はアイスティーのグラスを静かに置く。


「約束したの……ある子の願いを叶えるって」


「ある子?」


「そう、幼稚園の頃から陽太と仲が良かった子で、スポーツ万能の子がいたの。運動会ではいつもリレーの選手でその子は陽太の憧れだった。でもね、三年生のとき、突然重い病気にかかって歩けなくなった。医者から一生車椅子の生活を余儀なくされるなんて言われたの。

 その子のショックはとても大きかった。『オリンピックに出て金メダルを取るんだ』なんていつも言ってたから……夢って叶わずに終わるものがほとんどだけれど、夢に向かってがんばるのはとても大切なことだと思うの」


 頼子は視線をゆっくりと宙に向ける。


「そのとき、陽太は言ったの。『じゃあ、俺がお前の夢を叶える。オリンピックに出場して金メダルを取ってやる』ってね。

 運動会の徒競争で万年ビリの子の台詞じゃないよね? あたしは顔から火が出るくらい恥ずかしくてね。思わず陽太に『バカ』って言っちゃったの……でも、次の瞬間、後悔した。それは、あの子の目がキラキラ輝いていたから。そして、友だちも同じ目をしていたから。きっと、うれしかったんだと思う。

 そのときからあの子は走り始めた。毎日暗くなるまで一日も欠かさず走り続けた。先生や友だちのアドバイスを聞いて走り方やトレーニング方法も勉強した。そして、六年生の大会で県の代表になった。

 全国大会では負けちゃったけれど、あの子のがんばりを、お友だちも自分のことのように喜んでた。あの子の姿を自分にダブらせていたんじゃないかな」


 奈々子は胸が熱くなった。「もっと速く走りたい」。陽太がそう言っていたのには理由があった――それは大切な友だちの夢を叶えるため。今の走りは彼が並々ならぬ努力でつかんだものだった。


「そうだ。冬休みに入る前、『目標になる奴が現れた。あいつに絶対に勝つんだ』なんて言ってたかな」


 奈々子は黙ってアイスティのストローを咥える。


「でも、こんなことも言ってたわ。『俺はずっとあいつが笑顔でいられるようにしたい』。意味がわからなかったから訊き返したんだけど、教えてくれなかった。よほど大切なお友だちなのね。その子」


 奈々子の胸がトクンと音を立てる。サンタの衣装を身にまとう、幼い頃の陽太。真っ直ぐに何かを見つめる表情は今と少しも変わらない。


『わたしももらえるのかな? プレゼント』


 奈々子は心の中でポツリと呟いた。



 つづく

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