第4話 決意


 小学二年生のとき、奈々子は母親を病気で亡くした。


 母親の死から三ヶ月が経った頃、奈々子の父親は会社の同僚だった、二十代の女性と再婚したいと言い出す。母親に余命宣告がなされたとき、悲嘆に暮れる父親を女性が励ましてくれたのがきっかけだった。

 早すぎる再婚話に親族からは一斉に反対の声があがる。その中には、奈々子の祖母・夏目直子もいた。


 ただ、女性は傷心の奈々子に対してとても優しく接してくれた。


 告別式が終わって親族が引き揚げた後も、女性は毎日のように家にやって来て親身に世話をしてくれた。父親から奈々子の好みを聞いていたのか、食卓にはいつも彼女の好きなものが並んだ。

 女性は、時間を見つけて、自分が経験した、いろいろなことを奈々子に話して聞かせてくれた。楽しかったことやうれしかったことだけでなく、悲しかったことや辛かったことも。

 中でも奈々子が共感したのは、女性が中学生のとき、母親を病気で亡くして悲しい思いをしたこと。「奈々子ちゃんの気持ちが痛いほどわかる。少しでも力になりたい」。彼女は目に涙を浮かべてしきりにそんな言葉を口にした。


 最初は戸惑いを見せていた奈々子だったが、自分と同じ経験をした女性に親近感を抱き、少しずつ心を開いていく。

 告別式から三ヶ月が経つ頃には二人はすっかり打ち解け、いっしょに入浴したり眠ったりする仲になっていた。

 普段は優しい笑顔で接しながら、時には自分のために涙を流す女性。そんな彼女に奈々子は好意と信頼を抱いていた。


 二人は親子と言うより姉妹のようで、傍から見てもとても仲が良く和気あいあいといった雰囲気が伝わってきた。そんな様子を目の当たりにしたことで、親類の中に再婚話に異議を唱える者はいなくなった。

 こうして、母親の死から半年後、奈々子の父親と女性は再婚することになる。


 しかし、すぐに継母ままははの態度が豹変する。

 

 二人でテレビを見ていたときのこと。継母がタバコに火をつけ、これ見よがしに奈々子の顔に煙を吹きかけた。

 継母がタバコを吸うことを知らなかった奈々子は、突然の出来事に口をポカンと開けて狐につままれたような顔をする。

 次の瞬間、継母の表情が険しいものへと変わる。


 パーンという音とともに奈々子の顔に衝撃が走る。

 奈々子の頬に継母の平手打ちが飛んだ。


 「人の顔をじろじろ見るのは失礼だろ?」


 赤くなった頬を押さえて呆気あっけにとられる奈々子に、継母は見下すような視線を向ける。それまでとは別人のような継母に、奈々子は目の前で起きていることが信じられなかった。

 しかし、それは紛れもない現実だった。


 そのときから継母による「体罰」と称した家庭内暴力ドメスティックバイオレンスが始まる。

「笑顔がない」と言って顔を殴られ「何が可笑おかしい?」と言って蹴り飛ばされた。「隠し事をするな」と言ってタバコの火を手に押し当てられ「余計なことをしゃべるな」と言って熱いコーヒーを掛けられた。


 暴力に耐えかねた奈々子は、あるとき父親に相談する。

 しかし、父親の答えは奈々子が期待していたものとはかけ離れたものだった。


「何かお母さんに怒られるようなことをしたんだろ?」


 まるで奈々子が悪いことをしたかのようにたしなめられて終わりだった――いや、それだけでは終わらなかった。

 が継母の逆鱗げきりんに触れ、いつもの倍殴られ三日間何も食べさせてもらえなかった。


「今度告げ口をしたら、一生何も食べさせないし一生家から出さないから」


 継母は土下座をする奈々子の顔を足で踏みつけながら、鬼のような形相で睨みつけた。

 そのとき、奈々子の脳裏に、が浮かぶ。

 それは、以前継母が話してくれた、中学生のときに母親を亡くしたという話。奈々子はその話に深く共感し互いの距離がぐっと縮まった気がした。しかし、継母の態度が豹変したことで、それが事実なのかどうか疑わしく思えた。


 奈々子の味方は誰もいなかった。また、誰かに助けを求めるようなこともしなかった。そんなことが継母に知れたら、どんな目に遭うか容易に想像がついたから。


 継母の暴力は巧妙で、傷のほとんどは衣服で覆われた部分につけられた。

 体育の着替えの時間、青痣あおあざや火傷のあとを目にした友だちから訊かれたこともある。「花火の火が飛んじゃった」。「机の角にぶつけちゃった」。そんなとき、奈々子は笑顔で受け流した。


「奈々子ちゃん、何かあるなら私に教えて。お父さんやお母さんに相談するから」


 察しのいい友だちが優しい言葉をかけてくれたこともあった。涙が出るぐらいにうれしかった。

 しかし、奈々子の口から出たのは気持ちとは裏腹な言葉だった。


「構わないで。迷惑だから」


 継母の暴力がエスカレートすることを恐れた、悲しい決断だった。


 いつからか奈々子は誰とも話をしなくなる。そして、クラスでも孤立した。

 もしかしたら自分からそんな状況を望んだのかもしれない。先生や警察に相談しても、状況が悪くなることはあっても良くなることはないと思ったから。

 奈々子のSOSをキャッチした誰かが継母に状況を確認したら、彼女はきっとこんな風に答える。


「奈々子が悪いことをしたのできつめに叱ったら大袈裟おおげさに言ったようです。できれば私も叱りたくありません。でも、心を鬼にして叱りました。だって、私はこの子の親ですから。この子を愛しているのですから」


 そんな話を聞いたら、他人がそれ以上踏み込むことはできない。もちろん、それだけでは終わらない。奈々子にはいつもの何倍もの暴力が待ち受けている。


★★


 直子は孫の奈々子のことを目に入れても痛くないほど可愛がっていた。そして、奈々子もそんな直子が大好きだった。しかし、母親の死を契機に二人は疎遠になり、会うこともままならなくなる。

 しかし、奈々子のことが諦めきれない直子は、盆・暮れ、誕生日、クリスマス、その他理由を付けて贈答品を送り、奈々子と話をするようにした。


 電話をすると、継母は愛想よく挨拶をして贈答品のお礼を言う。奈々子に電話を替わるようお願いすると二つ返事で了承する。

 しかし、奈々子が電話に出る前に決まって受話器の通話口を押さえて奈々子に何かを言っている様子がうかがえた。

 電話に出た奈々子は、明るい声で「元気」、「楽しい」、「友だち」、「お母さんとお父さん」といった言葉を並べ、元気で楽しくやっていることをアピールする。

 ただ、「今度お父さんとお母さんといっしょに横浜へ遊びにおいで」といった話をすると、決まって「行きたいけど、また今度ね」といった返事が返ってくる。直子は内心とても残念に思いながら「奈々子が幸せに暮らしているなら」と自分に言い聞かせた。


 そんな中、奈々子が小学六年生になった年の六月、直子の夫が亡くなった。死因は膵臓がん。半年前に余命宣告がなされていたことで覚悟はできていた。

 訃報を聞いた、奈々子の父親から「通夜と告別式に出席したい」との電話があった。そのとき、直子は不謹慎だと思いながらうれしい気持ちを抱く。「奈々子に会うことができる」と。


 通夜が始まる二時間前、喪服をまとった、奈々子と両親が現れた。

 夫を亡くした悲しみに暮れながら、直子は四年ぶりの再会に喜びを隠せなかった。そんな彼女に奈々子も満面の笑みで応える。


 しかし、奈々子の身体をしげしげと見つめた直子は怪訝な表情を浮かべる。

 まるで取っ組み合いの喧嘩でもしたかのように、ところどころあざや傷があるのが目に入ったから。


 直子はこの四年間に奈々子の身に何が起きたのかを悟る。

 それは、亡くなった夫が全国紙の記者をしており、晩年、家庭内暴力ドメスティックバイオレンスの特集記事を書くために取材をしていたことで、生々しい話を聞いていたから。


 近くには奈々子の両親がいる。別の場所へ連れ出して真実を聞き出そうとも考えた。ただ、何も答えてくれないのは目に見えていた。


「――被害者の心の声は聞こえない。声をあげることで被害者にはさらに厳しい仕打ちが待っているから。二十四時間三百六十五日、被害者を守ることができる法的枠組みが必要だ。それが実現しなければ、被害者の心の声は暴力から解放されたときにしか聞こえない。ただ、そのときの彼らはすでにしかばね若しくは生きるしかばねと化している。皮肉なことににはにあるのだ」


 直子の脳裏に夫の記事の結びのフレーズが浮かんだ。

 このままでは奈々子は壊されてしまう――そう思ったものの自分に何ができるのか思いつかなかった。

 フィクションの世界なら、正義の味方が現れて継母を懲らしめたり暴力の及ばない場所へ連れ出してくれたりする。しかし、現実はそんなに甘くはない。都合の良い夢物語に期待したら酷い目に遭う。


 裁判所に訴えて親の親権を停止・喪失させるのはハードルが高い。子供を暴力から守るために関係法令の改正が行われたが、運用された事例は極めて少ない。

 言い換えれば、日本では、被害者である子供に加害者である親権者を近づけなくするというのは不可能に近い。


 そのとき、直子は決心する――「全てを失っても奈々子を絶対に助ける」と。


★★★


 十二月十四日午後三時二十分。冷たい木枯らしが吹き抜ける、JR新横浜駅のホームに直子の姿があった。新幹線を下りた彼女は重そうなキャリーバックを引きながらエスカレーターの方へ向かって歩いて行く。

 不意に直子の後ろから近づいてきた人影がキャリーバックに手をかける。

 視線を向ける直子に、ワインカラーのダッフルコートに紺色のスカートと白いタイツを履いたが笑い掛ける。顔にできた青いあざが痛々しい。しかし、その表情かおはうれしそうだった。


「おばあちゃん、わたしが持つよ。年なんだから無理しないで」


 これから二人は横浜市内にある、直子のアパートへと向かう。

 そこが二人の新しい家。そして、奈々子が彼女の新しい名前。


 直子は親から受け継いだ土地や家屋、夫が残してくれた財産のほとんどを失った。しかし、それを補っても余りある満足感を得ることができた。

 親権を手に入れるやり方は胸を張って言えるものではない。他人が知ったらののしられるのは必至だった。ただ、いくら後ろ指を指されようが罵倒されようが構わなかった。なぜなら、直子は自分の大切なものを自分の手で守ることができたのだから。


★★★★


 ベッドに大の字になって天井を見上げる陽太。脳裏に直子の話が蘇る。

 奈々子の悲惨な体験は小学生の陽太にはあまりにもショッキングで、忘れることなどできそうもなかった。


「嫌な話を聞かせてしまってごめんなさい」


 申し訳なさそうに何度も謝っていた直子だったが、別れ際に、陽太の顔を見て小さく微笑んだ。


「奈々子は吉野さんになら心を開いてくれるかもしれません」


 陽太は自分に何ができるのか思いつかなった。ただ、少しでも奈々子の力になりたいと思った。いや、「絶対に力にならなければいけない」と思った。


「月曜日にあいつと話をしよう」


 長かった、陽太の一日はそんな決心で幕を閉じる。



 つづく

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