第6話 夢と約束


「お、おっす」

「お、おはよう」


 月曜日の朝、教室で顔を合わせた陽太と奈々子。緊張した面持ちで挨拶を交わすと視線を逸らした。


「昨日は……悪かったな。うちの母ちゃんが……泥水かけちまって」


「わたしの方こそ、おばあちゃんが会いに来たみたいで……ごめんなさい」


 二人の間に沈黙が流れる。いつも以上に空気が重い。


「あのさ!」

「あのね!」


 同時に声をあげて顔を見合わせる二人。


「な、なんだよ?」


「吉野くんこそ」


 気まずい空気が流れる。


「話がある。放課後、ちょっと付き合ってくれねぇか?」


「ちょうど良かった。わたしも話したいことがあるの」


★★


 放課後、陽太と奈々子は山下公園を訪れる。

 海をバックに写真を撮る、カップルやファミリーを後目しりめに、二人は海沿いのベンチに腰を下ろす。


「悪かったな。わざわざ来てもらって」


「大丈夫。ここの方がいい」


 二言三言、言葉を交わすと再び沈黙が訪れる。


「話ってなに?」


 沈黙を破ったのは奈々子だった。

 陽太は深呼吸をすると、奈々子の方へ身体を向ける。


「前に『中学へ行ったら陸上部に入って欲しい』って言ったけど、その答えを聞きてぇと思って……その前に一つ教えてくれ。夏目にははあるか?」


「夢? そんなこと聞いてどうするの?」


 奈々子はいぶかしそうに首を傾げる。陸上部のことは訊かれると思っていたが、夢の話は想定外だった。 


「俺、考えたんだ。もしお前に夢があって、中学で夢を叶えるためにやらなきゃいけねぇことがあるなら、俺のわがままに付き合わせちゃいけねぇって……そのときは、お前の夢を応援する。だから、それを聞いたうえで答えをもらおうと思った」


 奈々子は視線をベイブリッジの方へ向ける。港内を遊覧するマリンルージュが橋の下を通過していく。


「夢なんかない」。土曜日までの奈々子だったら、間髪を容れず、陽太の質問を一蹴いっしゅうしただろう。

 しかし、日曜日に陽太の家を訪れて、夢や願いに対する、陽太の思いを垣間見たことでどう答えたらいいか迷っていた。


「もしわたしに夢があったら、応援してくれるの?」


「もちろんだ。俺ができることは何だってする」


「そう……」


 二人の前を幼稚園ぐらいの小さな女の子を連れた男女が通り過ぎて行く。海を見てはしゃぐ娘に優しい眼差しを向ける両親といったところだ。三つの幸せそうな笑顔を奈々子は目で追った。


「誰にも言わないって約束してくれる? わたしの夢のこと」


「わかった。俺とお前だけの秘密にする」


 陽太が真剣な表情で頷くと、奈々子はふっと息を吐く。

 

「わたし、小学校の先生になりたい。みんながいつも笑顔でいられるように見守ってあげたい。絶対にを出さないために」


 陽太は「わたしみたい」という言葉の意味をすぐに理解した。

 奈々子も自分のいまわしい過去を陽太が知っている前提で話をしている。


「先生を恨んでいるわけじゃない。普通の先生は何もできないのが当たり前だから……でも、わたしなら、きっとできることがある。子供たちの心の声をしっかり感じとって悲しみや苦しみを独りで抱え込まないようにすることができる」


 無表情で淡々と話す奈々子。そんな彼女の一言一言に陽太は「うんうん」と小さく頷く。


「――でも、わたしは先生になれない。先生になるには大学へ行かないといけないから……わたし、中学を出たら働くつもり。これ以上おばあちゃんに苦労はかけられないから。わたしのことを助けてくれたおばあちゃんに恩返しがしたい。おばあちゃんに楽をさせてあげたい。吉野くんがわたしの夢を応援してくれるのはうれしい。でも、わたしの夢は夢で終わる」


 奈々子は湾内を航行する、黒い貨物船の方に目を向ける。どこからか聞こえてくる汽笛はあの船が発しているのかもしれない。


「夏目、ダメだ! 簡単に夢を諦めちゃダメだ!」


 陽太は首を大きく横に振りながら語気を強める。


「無理なものは無理。おばあちゃんはわたしを助けるために全てを失った。これ以上わがままは言えない。わたしの言ったことは忘れて」


 感情を表に出さない奈々子だったが、その言葉にはどこか悲しい響きがあった。


「忘れねぇ。俺は絶対に忘れねぇ……夏目、陸上部に入れ。そして、全国大会で優勝するんだ。そうすれば、いやでも有名校からスカウトが来る。学費や寮費が要らない高校だってある。それから、今度は高校で優勝するんだ。同じように大学から声がかかる。金が要らねぇ大学へ行くんだ。それなら、おばあちゃんに負担はかからねぇ。オリンピックや世界陸上せりくに出れば、スポンサーがついて金がもらえる。おばあちゃんに恩返しができる」


 陽太は真剣な表情を浮かべて必死に奈々子を説得する。

 奈々子は唇を噛んで視線を足元に落とす。


「……同じこと、考えたことがある。『優勝』って口で言うのは簡単。でも、優勝できる保証なんてどこにもない。スポーツ入学して使い物にならなければ、学費を払わなければいけない。払えなければ学校を退学させられる。そうなったら、おばあちゃんはどんなことをしてでもお金を作ろうとする。自分を犠牲にして……そんなこと、させちゃいけない。だから、夢なんか見ない方がいい」


「夏目、大丈夫だ。お前は日本一のスプリンターになれる。いや、世界一だって狙うことができる。俺が保証する」


 間髪を容れず、陽太が奈々子の言葉を否定する。


「どうしてそんなことが言えるの? 確かに今のわたしは吉野くんより速く走ることができる。でも、きっとすぐに追い抜かれる。すぐにみんなに追い抜かれて選手として使い物にならなくなる」


 下を向いたまま不安な胸の内を吐露する奈々子。祖母の直子のことを大切に思う気持ちがひしひしと伝わって来る。

 家庭内暴力ドメスティックバイオレンスから解放された今でも、奈々子はその小さな身体で大きくて重い物を背負い込んでいた。


「俺の言うことが信じられねぇみてぇだな……わかった。大丈夫な理由を三つ言ってやるよ」


 自信ありげな陽太の言葉に、奈々子はゆっくりと顔を上げる。


「一つめは、いっしょに走った俺との差を考えれば、中学生の女子でもお前に勝てる奴はほとんどいねぇ。二つめは、お前には背負っているものがある。それをプレッシャーにしてがんばれば他人より強くなれる。そして、三つめは――」


 陽太は満面の笑みを浮かべると、右手の拳を自分の胸に当てる。


「――俺はいつだってお前のそばにいる。お前の夢が叶うまでずっとそばにいる。絶対にお前を見捨てたりはしねぇ。約束する」


 陽太の瞳がキラキラ輝いて見えた。「口で言うのは簡単」。さっきまでそう思っていた奈々子だったが、陽太の言葉は信じられる気がした。夢が現実味を増した気がした。


 これまで奈々子が走ってきた理由――それは「嫌なことを見えなくする」といった

 そのとき奈々子は、初めてを見つけた気がした。


「吉野くん、わたしにもくれたんだ」


「くれたって……何をだ?」


 奈々子の唐突な言葉に陽太は首を傾げる。


「季節外れのクリスマスプレゼント。サンタ見習いからの」


「お、お前、なんで……? うちの母ちゃん、そんなことまで話したのかよ!?」


 顔を赤くして動揺する陽太。そんな彼を見ていたら奈々子は心が穏やかになるのを感じた。全身が温かな何かに包まれていくような感覚――それは何年も忘れていたもの。祖母といっしょにいるときも感じたことがなかったもの。


 揺れる水面みなもに反射する陽の光がまぶしく感じられる、穏やかな午後のひとときだった。



 つづく

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