第7話 クールガールとホットボーイ


 「女王 夏目奈々子 100m&100mハードル圧勝」

 ――全国中学陸上 女子100mで10秒台


 「女子100m初の10秒台 スーパー中学生 異次元の走り」

 ――夏目奈々子 世界歴代11位タイで3連覇


 「夏目奈々子 今期世界最高タイム 11秒の壁を突破」

 ――女子100mで日本記録を大幅更新


 「来年の世界陸上 主役はクールビューティー」

 ――夏目奈々子に日本中がホットな視線


 八月に開催された全国中学陸上選手権。翌日のスポーツ新聞の一面は奈々子一色だった。スポーツ紙だけではない。一般紙のスポーツ面や社会面にも彼女の写真やインタビューが数多く掲載された。

 それもそのはず。100m走で日本の女子が初めて10秒台のタイムを記録し、しかも、それが中学三年生によるものだったから。

 奈々子が記録した10秒71はその年の世界最高タイム。歴代の記録を見ても十一位に当たる。翌年横浜で開催が予定されている世界陸上での優勝も夢ではなく、女子短距離界始まって以来の快挙に日本中が盛り上がりを見せた。


 中学に入学してからの奈々子の活躍は目を見張るものがあった。

 奈々子はもともと専門家による指導や科学的なトレーニングとは無縁で、自分が走りたいように走っていた。にもかかわらず、男子100mで全国五位の陽太を全く相手にしない走りを見せた。中学に入学して本格的なトレーニングを開始したことで、その類稀たぐいまれな才能が開花しないはずなどなかった。


 中学一年でいきなり県大会を圧勝すると、全国選手権でも上級生を寄せ付けず中学記録で100mの新女王となる。その後種目を100mハードルにも広げ、中学二年の全国選手権では100mの連覇に加え100mハードルでも優勝し、両種目で女子の日本記録を塗り替えた。


 名実ともに日本女子短距離界の頂点に立った奈々子だったが、決して妥協はしなかった。より厳しいトレーニングを課すことでより高みを目指した。同年代の女子はもちろん男子でさえ彼女のスピードについていける者がいないため、練習相手は専ら陽太が務めた。

 そして、迎えた最後の選手権。大方の予想どおり、奈々子は次元の違う走りを見せた。もし練習のときと同じように陽太といっしょに走っていたら、さらに速いタイムが記録されたことだろう。


 陽太はと言えば、奈々子同様、一年のときから県大会を突破し全国選手権に出場した。結果は、一年時は七位、二年時は五位、三年時は三位。優勝には手が届かなかったものの、奈々子を相手にレベルの高いトレーニングを続けてきたことでその走りは着実に上達し、将来の日本陸上界を担う選手の一人として注目を集めるようになった。


 陽太のベストタイムは10秒83。奈々子が記録した10秒71は、男子中学生の歴代十位で、男子高校一年生の歴代二十位に当たる。

 普通に考えれば、一、二年もすれば破ることができそうな数字ではあるが、陽太は奈々子に勝てる気がしなかった。いつか10秒の壁をも突破し男子のトップスプリンターと対等に戦えるのではないかとさえ思った。それほど奈々子の走りには威圧感や凄味が感じられ、それはいっしょに走った者にしかわからない感覚だった。


★★


「陽太、相談したいことがあるの。ちょっと付き合ってくれない?」


 十一月上旬のある日の放課後、帰り支度をする陽太に奈々子が神妙な顔つきで話し掛ける。


「じゃあ、元町のスタバにでも行くか。今日の自主練は休みってことで」


 陽太はカバンを肩に掛けながら二つ返事で了承する。


 八月の全国選手権が終わって陸上部を引退した二人だったが、放課後の自主練習は続けていた。

 一般の生徒であれば部活動の引退を機に受験勉強に本腰を入れるが、スポーツ推薦による進学を希望する二人にとっては自主練習が受験勉強のようなもの。特に、翌年の世界陸上の強化選手に指定されている奈々子は、日本陸上競技連盟りくれんから詳細なトレーニングメニューを言い渡されていた。


「なんだよ? 相談って」


 横浜元町のショッピングストリートに面した、スタバのカウンター席。陽太はアイスティーのストローをくわえながら、隣に座る奈々子へ視線を向ける。


「スポーツ推薦の話だけど、どこからか打診があった?」


 ホイップクリームが盛られたキャラメルフラペチーノをスプーンでかき混ぜながら、奈々子がポツリと呟く。


「昼休みに先生から話があった。四校から打診があった」


「四校? どこ?」


 スプーンを持つ手を止めると、奈々子は陽太の顔をじっと見つめる。


「東京の西北実業、神奈川の海南と鎌倉国際、それに、京都の平城大付属だ。お前もあったんだろ?」


「うん。関東が八校と関西が四校。西北実業、鎌倉国際、平城大附属はわたしもあった。でも、よかった。陽太と同じところがいいと思ってたから」


 奈々子は小さく息を吐いてホッとした表情を見せる。


「条件はどうだ? 授業料や合宿費用なんかは免除されるのか? 平城大附属だったら寮費も関係するよな」


「どの高校もお金については全額免除。でも、わたし、自宅から通いたいの。おばあちゃんのことも心配だし寮生活なんて息苦しくて耐えられないから」


「じゃあ、西北実業か鎌倉国際だな……鎌国は通うには近いが大学が無い。西実は西北大に推薦で行けるし教育学部もある。将来のことを考えれば、奈々子は西実がいいんじゃねぇか?」


「西北は電車で一時間ちょっと……うん、決めた。わたし、西北実業にする」


 奈々子はキャラメルソースがかかった、氷の粒をパクリと頬張ほおばる。


「おい。そんな簡単に決めちゃっていいのかよ? おばあちゃんにもちゃんと相談しろよ」


「おばあちゃんは、わたしと陽太で決めればいいって言ってた」


 大丈夫と言わんばかりに自分の顔を陽太の顔に近づける奈々子。クリームがついた唇にぺロリと舌をわせる。

 甘い香りが鼻を突く。それは奈々子がつけているオーデコロン。ほのかに匂う程度で近寄らないとなかなか気づくことはない。

 初めて意識した「奈々子の香り」に胸の鼓動が速くなった。目の前にいる奈々子が自分の知っている彼女とは別人に見えた。コロンのせいだけではない。なまめかしい表情や大人びた眼差しが女らしさをかもし出している。


 この三年間、奈々子とは毎日のように顔を合わせてきたが、こんな気持ちを抱いたことは一度もなかった。

 ボーイッシュなショートヘアで男勝りのパワフルな走りをする奈々子は、陽太にとって好敵手ライバルであり憧れだった。しかし、目の前にいる彼女はこれまでのイメージとはどこか違っている。


「そ、そうは言ってもだな、おばあちゃんは保護者なんだから、相談しないと不味いだろ? やっぱり……」


 陽太は目を逸らしながら身体を奈々子と反対の方へ向ける。自分でもしどろもどろになっているのがわかった。


「陽太はどうなの? もちろん西実だよね? 陽太が他の高校へ行くならわたしが西実に行く意味なんかないもの。裏切らないでよ」


 奈々子は肩越しに陽太の顔を覗きこむような仕草をする。甘い香りといっしょに顔が急接近する。


「そ、そんなことするわけねぇだろ! 俺も西実に行くよ! だから……ちょっと離れろよ」


 顔を赤らめながら陽太は喉の奥から言葉を絞り出す。


「良かった。安心した。でも、陽太はお父さんやお母さんに相談しなくていいの?」


「いいんだよ。俺は」


 陽太は残ったアイスティーと氷を一気に口の中へ流し込むと、ガリガリと音を立てて氷を噛み砕く。顔や身体は火照ほてっているのに、口の中だけがとても冷たかった。

 そんな陽太の様子を眺めながら、いつものポーカーフェイスの奈々子は両手でタンブラーを抱えてキャラメルフラペチーノを飲み始める。


 陽太はその日のスタバでの出来事をよく憶えていない――進学先として西北実業を選んだこと以外は。



 つづく

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