第11話 絶望の淵で


 クリスマスイブの夜、産業道路でダンプカーにかれた奈々子はスタジアムの近くにある横浜労災病院へ緊急搬送された。


 警察官に搬送先を聞いた陽太はすぐに病院へと向かい、奈々子と対面する。

 しかし、奈々子と面会した場所は病室でも集中治療室でもなかった。

 案内されたのは別棟の地下にある霊安室。ひんやりした空気が漂う、真っ暗な部屋に、奈々子は全身に白い布を掛けられた状態で寝かされていた。


 奈々子には治療と呼ばれるものはほとんど施されなかった。搬送されたとき、すでに心肺は停止し蘇生が不可能な状態だったから。死因は、全身の強打による大量出血に起因する外傷性ショック。

 血の気が失せて青白くなった顔に触れると、霊安室の空気と同じぐらい冷たく感じられた。

 顔には外傷らしきものは見当たらなかったが、看護師の話によれば、身体のところどころに酷い傷痕や骨折箇所があり見るに耐えられないとのこと。

 静かに横たわる奈々子は人形のようで、スタジアムの前でまぶしい笑顔を見せていた彼女とは別人だった。ただ、その表情は安らかで、どこか満足感を抱いているようにも見えた。


 人気のない、静まり返った廊下に呆然ぼうぜんと立ち尽くす陽太。自分が直面している事態を現実として受け止めることができずにいた。


『これは夢だ。悪い夢だ。目を覚ませば現実に戻る。そうすれば、奈々子に会える。笑顔の奈々子に会える。早く目を覚まさないと』


 うつろな表情を浮かべながら、陽太は心の中でそんな言葉をひたすら繰り返した。

 陽太が正気に戻ったのは、母親の頼子が奈々子の祖母・直子といっしょに病院に到着したとき――霊安室から直子の狂ったような泣き声が聞えたときだった。

 その声は一向に止む気配がなく、頼子に抱きかかえられながら廊下に姿を現した直子は、歩くことはおろか立っていることさえままならなかった。


 頼子は沈痛な面持ちを浮かべて直子を長椅子に座らせる。

 その様子を目の当たりにした瞬間、陽太の目からせきを切ったように涙があふれ出した。

 直子の前にひざまずくと、陽太は両手と額を床に押し当てた。


「ごめんなさい! ごめんなさい! 俺が目を離したばっかりにこんなことになって……ずっとそばにいなきゃいけないのに……ずっとそばにいるって約束したのに……俺のせいであいつは……ごめんなさい! ごめんなさい!」


 涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら、陽太は謝罪の言葉を繰り返した。しかし、放心状態の直子には陽太の言葉は全く届かなかった。

 たまりかねた頼子が陽太のもとへと駆け寄る。


「陽太、顔を上げるの。あんたの気持ちはわかる。でも、自分を責めちゃダメ。これは事故なの。いろんなことが重なって起きた事故なの。あんたのせいじゃない。奈々子ちゃんもあんたのことを責めてなんかいない。だから、顔を上げて」


 身体を震わせながら涙をこらえる頼子。必死に冷静さを保ちながら、陽太の腕を引き寄せるが、彼はその場から動こうとしない。きずがついたCDのように同じ言葉を繰り返す。「奈々子が死んだのは自分のせいだ。奈々子を殺したのは自分だ」と。


「そんなこと言っちゃダメ! あんたは悪くない! それを言うなら、悪いのはあたしだ! あの店で花を買って奈々子ちゃんにプレゼントする話を持ちかけたのはあたしなんだから! あんたは何も気にすることなんかないんだよ! 陽太!」


 目に涙を溜めて息を弾ませながら、頼子は必死に陽太に話して聞かせる。しかし、いくら言っても陽太の態度は変わらなかった。

 らちが明かない状況に、頼子は仕事中の夫に病院に来てもらい、陽太と直子を無理やり連れて帰った。


★★


 後日、所轄の警察署から事故についての説明があった。

 現場に居合わせた数名のドライバーに話を聞いたところ、口を揃えて同じ証言をした。「反対車線から突然女の子が飛び出してきた」と。


 奈々子は、歩道寄りの車線を時速六十キロで走ってきたダンプカーの前面に衝突して、そのまま約二十メートル跳ね飛ばされた。

 薄暮の時間帯に雪が降っていたことで視界は悪かった。また、事故現場の三百メートル手前にスタジアムへ横断するための横断歩道が設置されているが、その後は信号のない直線がしばらく続いていることから、信号が青に変わると制限速度を超えて疾走する車も少なくなかった。

 事故を起こしたダンプカーも例に漏れず、急ブレーキを踏んだ形跡はあるものの、荷台に数トンの重さの砂利を積んでいることから停止することはできなかった。


 事故が起きたのは、奈々子がいたマンションから最も遠い車線。彼女は、三メートルの歩道、上り線の三車線、ガードレールで仕切られた五十メートルの空間、そして、下り線の三車線を斜めに横断して約百メートルの距離を走った計算になる。


 奈々子がそんな行動に出た背景には、車線上にいた、体長三十センチのメスのロングコートチワワが関係していた。


 大きな音を立てて車が近づけば犬は逃げる習性があり、チワワが車のエンジン音に気付かずその場にとどまることは考え難い。

 しかし、そのチワワは――二本の前肢と二本の後肢がそれぞれ釣り糸によりしばられ口にも同じ釣り糸が巻かれていた。

 警察官が歩道に横たわるチワワを保護したとき、チワワは全く動けない状態にあり声を出すこともままならなかった。

 奈々子は、そんなチワワの命を助けるために、猛スピードで疾走する車の前に身を投じた。


 人為的に生き物の自由を奪い無抵抗のまま死んで行くのを楽しむ愉快犯の仕業――それが警察の見解だった。

 一見突飛な発想に思えるが、それには布石があった。十二月に入って東京都や埼玉県で同様の事件が数件報告されており、動物愛護管理法違反の疑いで捜査が進められていた。

 なお、保護されたチワワはおびえてはいるものの命に別状はなく、警察で預かって飼い主を探すこととなった。


★★★


 十二月二十九日午前二時。真っ暗な部屋でベッドに座って視線を窓の外へ向ける陽太。ただ、そのうつろな瞳には何も映ってはいない。


 事故から四日が経ったが、陽太はずっと自分の部屋に閉じこもったまま。眠ることも食べることもせず、ぼんやりとしていた。

 両親が代わる代わる何度も部屋を訪れたが、部屋の鍵を開けようとしなかった。ドア越しに粘り強く話をする両親に対して陽太は何の反応も示さなかった。まさに「生きるしかばね」という形容がぴったり。


 前日二十八日、奈々子の告別式が行われた。

 将来の日本陸上界を担うスーパースターの事故死ということもあり、マスコミやファンが大勢詰めかけ、斎場の周辺は騒然としていた。ただ、陽太は通夜にも葬儀にも参列しなかった。「できなかった」というのが正しい。取り返しのつかないことをしてしまったことで、奈々子と直子に合わせる顔がなかったから。


『俺は奈々子の夢を叶えるんじゃなかったのか? いつもそばにいてあいつを支えるんじゃなかったのか? あいつを守るんじゃなかったのか? 約束したんじゃなかったのか?』


 心の中で陽太は自問自答を繰り返す。

 しかし、問いに対する答えは見つからず、最後の問いが終わった瞬間、決まってやり切れない思いがこみ上げてくる。

 歯を食いしばり身体を震わせながら声を押し殺して泣いた。涙が枯れるぐらいに泣き続けた。

 ただ、時間が経つと再び同じ自問自答が始まる。枯れたと思っていた涙が再び頬を濡らす。


『なぜ他人に気を許すことのなかった奈々子が犬を助けたんだ? なぜ犬一匹のために自分の命を犠牲にしなければならなかったんだ? あの犬さえいなければ奈々子は死ななくて済んだんじゃないのか?』


 自分を責めても何の解決にも至らないことがわかると、今度は別の何かを責め始める。何かに責任転嫁をすることで自分が犯した罪を軽減できると考えたのかもしれない――ただ、それは無駄以外の何物でもなかった。

 いくら責任を転嫁しても、いくら犯人捜しをしても、奈々子が生き返ることはない。「二度と奈々子の笑顔を見ることはできない」。そんな結論に辿り着くことで陽太の悲しみは何倍にも膨れ上がった。


『奈々子、教えてくれ。俺はこれからどうすればいい? お前の夢を守れなかった俺に何ができる……? 俺はもう生きてる資格なんかねぇよな?」


 陽太の中で新たな自問自答が始まる。睡眠や食事をほとんど摂っていないことで肉体的な疲れが蓄積され、重い自責の念に駆られたことで精神的な疲れがピークに達していた。

 思考が麻痺し正常な判断力を失った陽太は、非常に危険な状態にあった。

 焦点の合っていない視線を窓の外に向けながらゆっくり立ち上がると、おもむろに窓を開ける。

 身を切り裂くような、冷たい風が部屋の中に吹き込んでくる。しかし、陽太には冷たさなど微塵も感じられなかった。

 眼下にはアスファルト舗装された道路が見える。高さは約五メートル。頭から落ちれば致命傷は免れられない。


 ドアをノックする音が聞えた。

 これまでこんな時間に両親が部屋を訪れることはなかった。ただ、陽太にとってはどうでもいいことであり、我関せずといった様子で窓枠へ右足を掛けた。


「お前が死んでも何も変わらんぞ。あのが悲しむだけじゃ」


 背後で聞き慣れない声がした。

 振り向くと、ドアの前に誰かが立っている。目を凝らして見てみたが、やはり誰かがいる。


 恰幅かっぷくの良い身体に人の良さそうな顔。真っ白な顎鬚あごひげと髪の毛が一体となり、その間から青い目と大きな鼻がのぞいている。赤い上着に赤いズボン。赤い帽子に黒い長靴。そして、両手には白い手袋――その風貌はまさにサンタクロースだった。


「それから、いくら若いからと言って少しは食べんと身体がもたんぞ」


 男は手に持った皿を陽太の目の前に突き出す。

 皿の上には、海苔が巻かれた小さめのおにぎりが三つと、黄色い沢庵たくあんが数切れ。陽太の夕食として頼子がドアの外に置いていったものだ。

 おにぎりを手に取ってまじまじと見つめる陽太。少しかじってみたが、頼子が作ったものに間違いなかった。ただ、ドアには鍵がかかっている。


「何を狐につままれたような顔をしとる。もともと、わしのようになりたいと言ったのはお前じゃぞ」


 右手で真っ白な顎髭あごひげでながら男はニッコリと微笑む。


 ドアの外に置いてあったおにぎりの皿を手に、鍵がかかった部屋に入ってきた男の行動は常識では説明がつかない。「サンタなら可能かもしれない」。陽太の脳裏をそんな考えがよぎる。

 しかし、次の瞬間、頭を何度も左右に振った。ここ数日眠っていないことで、自分が幻覚を見ていると思ったから。


「『信じられない』といった顔じゃな? 夢や幻でも見ていると思っとるんかのぉ。嘆かわしいことじゃ。

 わしの存在を信じていると思ったからこそ、こうしてお前のもとへ来てやったのにのぉ……。なぁ、若いの。夏目奈々子にもう一度会いたくはないか?」


 陽太の目の色が変わった。

 男の口から奈々子の名前が出たことで、その存在が「夢や幻ではない」ということにはならない。「会う」という言葉が何を意味しているのかもわからない。ただ、夢や幻であったとしても、男の話に耳を傾けるべきだと思った。そうすることで、遠く離れてしまった奈々子との距離を少しでも縮められるような気がしたから。


「おっさん、俺は会いてぇ。もう一度、奈々子に会いてぇ」


 陽太ははっきりとした口調で言った。



 つづく

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