第10話 笑顔の行方


 ライトアップされた通りを、二人は人の波をスラロームするように歩いていく。陽太が奈々子の前に立って手を引いているのは、さっきのようなことが起こらないようにするため。自分の身体を盾とすることで、奈々子を守りながらエスコートしていた。


 二人が歩いているのは「産業道路」と呼ばれる六車線の都市計画道路。普段から交通量が多く、クリスマスイブであっても猛スピードで行き交う車が途切れることはない。眩いヘッドライトを点灯させた、大型の貨物自動車が疾走する様は師走のイメージそのもの。


 一般的に、片側三車線の道路の中央部には、安全対策としてコンクリートで作られた分離帯が整備されているが、産業道路は状況が少し違う。幅が五十メートル以上ある、広大な敷地が上下の車線を分離している。それは、将来真上に高速道路を通す計画があるためで、現在はアスファルト舗装が施されもっぱら駐車場や資材置き場として使われている。


 新横浜駅の周辺はどこもかしこも人で一杯だったが、駅から離れるにつれ人気ひとけが少なくなり車の台数の方が多くなる。

 飲食店や娯楽施設が影を潜め、ところどころ空き地が目立ち始める。宅地開発が進められてはいるものの住宅街と呼ぶには程遠い。

 いつの間にか、二人は、人の姿がまばらな寂しい景色の中に身を置いていた。


「やっと人がいなくなった。もう大丈夫だな」


 陽太は安堵の表情を浮かべると、つないだ手をゆっくりとほどく。

 奈々子は思わず顔を上げる――心地良い温もりが消えてしまったから。


「奈々子、あれ、何だかわかるか?」


 陽太が産業道路の向こう側を指差す。奈々子の目にスタジアムのような巨大な建築物が映る。


「きれい」


 淡い青色のライトアップに声が漏れた。あたりには光がほとんどないことで、闇の中に浮かび上がるスタジアムは、まるで深海のような幻想的な趣が感じられる。


「百メートルぐらい離れるといい感じに見える。ここはベストスポットだ。人もいねぇしな」


「陸上競技場……?」


 躊躇ためらいがちに奈々子が尋ねる。


「お前、来たことなかったか?」


「うん、初めて。新横浜はほとんど行かないから」


「正式名称は『横浜国際総合競技場』。でも、『日産スタジアム』の方が一般的だな。Jリーグのサッカーチームの本拠地だ」


 そのネーミングを聞いた瞬間、奈々子は何かを思い出したような顔をする。


「来年の世界陸上せりくの会場?」


「そうだ。奈々子はここで走るんだ」


「だから連れてきてくれたの?」


「それもある。でも、それだけじゃねぇ。お前に見せたかったんだ――俺が感動した景色を」


 陽太は照れくさそうに人差し指で頬のあたりをポリポリと掻く。

 奈々子は身体のしんが熱くなるのを感じた。


「小学校三年のとき、どこかへ出掛けた帰りに車から偶然見た景色だ。あのときの俺は県大会出場も夢のまた夢だった。『目標は全国大会』なんて言おうものなら『面白い冗談』と笑い飛ばされた。でも、この景色を見たら『やってやる』って思えたんだ」


「友達のために?」


「母ちゃんから聞いたのか? 確かに、あのときは


 陽太は目を細めて視線をスタジアムに向けた。


「でも、六年のとき、初めて全国大会で走って少し考えが変わった。もちろん『友達あいつのために金メダルを獲る』っていう気持ちは変わらねぇ。ただ、『自分のために勝ちたい』とも思った。『絶対に負けたくない』って思った」


 陽太の横顔をじっと見つめる奈々子。瞳がキラキラと輝いている。


「俺に感動と力を与えてくれた景色をお前にも見せたかった。こんなことしかできなくて申し訳ねぇけど、お前には来年の世界陸上せりくで優勝して少しでも夢に近づいて欲しいんだ」


 思わず声に力が入った。ふと柄にもないことを言っている自分に気付いて、陽太は照れたような表情を見せる。


「陽太――」


 奈々子は両手を自分の胸の上に重ねて静かに目を伏せる。


「わたし、三年前、おばあちゃんに連れられて新横浜に来たの。でも、不安でいっぱいだった。新幹線の中でおばあちゃんから『もう何も心配することない』って何度も言われたけど、信じられなかった。新横浜に着いたらが先回りしていて連れ戻されるんじゃないかって思った。

 おばあちゃんの家に行ってからもしばらく怖かった。夜中に物音がすると目が覚めてそのまま眠れないこともあった。もちろん、おばあちゃんにはそんな話はしていない。心配させたくなかったから」


 そのとき、スタジアムのライトアップが淡い青色から華やかな黄色へと変わった。まるでスポットライトのような明るい光が奈々子の身体を照らす。


「でもね、クリスマスイブの日、小学校のグラウンドで陽太と走ってから気持ちが楽になった。上手く言えないけど、心のどこかで『大丈夫じゃないか』って思えるようになった……おかしいよね? 見ず知らずの人と一度いっしょに走っただけなのに。『いっしょに走りたい』なんて思ったこと自体、自分でもすごく驚いてたし……。

 走り終わって陽太がわたしに声をかけてくれたよね? あのときの陽太の目、すごくキラキラしてた。さっき、わたしにスタジアムのことを話してくれたときと同じ目だった」


 奈々子はゆっくりと顔を上げる。ライトアップの光を背中にまとった彼女は、後光が差したような、まばゆい輝きを放っている。

 奈々子がとても眩しく見えた――何よりも眩しかったのは奈々子の笑顔だった。


「ありがとう。陽太。わたし、横浜に来て良かった。陽太と出会えて良かった。わたし、絶対に優勝する――夢を叶えるために。おばあちゃんのために。それから、陽太のために」


 奈々子は恥ずかしそうに身体をスタジアムの方へ向ける。笑顔を見せたことに少なからず戸惑いを見せているようだった。


「良かった。本当に良かった」。陽太は心の中で何度も呟いた。奈々子の幸せそうな顔をしっかりと脳裏に焼きつけながら。


★★


「奈々子、少し待っててくれ」


「どこ行くの?」


「ちょ、ちょっと便所だ。そこのコンビニまで行って来る。すぐ戻る」


 陽太はレンガ造りのマンションの脇の路地に一目散に駆けて行く。後ろ姿を目で追っていた奈々子だったが、その姿が見えなくなると小さく微笑んだ。


「陽太らしいな」


 陽太は後ろを振り返って奈々子に見られていないことを確認する。

 路地を二百メートルほど入ったところに「MONCEAUモンソー FLEURSフルール」と書かれた、小さなネオンサインが目に入る。外見は普通の一軒家で見過ごしてしまいそうだが、ここは知る人ぞ知るフラワーアレンジメントの名店。

 クリスマスリースが飾られた木製のドアを開けると、ウインドチャイムの音と陽気なクリスマスソングが聞こえてくる。


「クリスマスブーケを予約した吉野と言います」


「いらっしゃいませ。少々お待ちください」


 書き入れ時ということもあり、店内では首から黒いエプロンを下げた、四人の女性店員が忙しそうに動き回っている。


 陽太は、母親の頼子のアドバイスを受け、無い知恵を絞ってクリスマスの計画を立てた。

 五時に新横浜プリンスホテルで待ち合わせをして日産スタジアムのライトアップを見せる。その後、サプライズなプレゼントを用意する。プレゼントはコンパクトなクリスマスブーケ。頼子から近くに生花を加工してくれる店があることを聞いて計画に組み入れた。その後は、スタジアムの近くにある、中学生でも入れるようなイタリアンの店を予約した。


「お客様、大変申し訳ございません。こちらの手違いで、オーダーが十二月十七時となっておりました。今からすぐにお造りしますので十五分程お待ちいただけませんでしょうか? お代は割り引かせていただきますので、どうかよろしくお願い致します。本当に申し訳ございませんでした」


 思い掛けないトラブルだった。ただ、プレゼントを無しにするわけにはいかない。奈々子を待たせることになるが、戻って状況を説明すればサプライズでなくなってしまう。

 幸いにも、今奈々子がいるのは産業道路に面した、大きなマンションのエントランス。人通りは少ないが治安は決して悪くない。考えた末、奈々子には少し待ってもらうことにした。


★★★


 クリスマスブーケを受け取った陽太は、丁重に詫びを入れる店員を後目しりめに店を飛び出した。顔に冷たいものが当たる。いつの間にか雪が舞っている。道路が黒くなっているところを見ると、店に入ってすぐに降り出したようだ。


「最悪じゃねぇか。あいつ、怒ってるだろうな。ひたすら謝るしかねぇな」


 陽太は苦虫を噛み潰したような顔をしながら産業道路へ出る。そして、奈々子が待つ、レンガ造りのマンションの前に到着する。

 しかし、そこに奈々子の姿はなかった。「雪が降ってきたから建物の中にでも入っているのか?」。そんなことを思いながらマンションのエントランスを覗いたが、やはり彼女の姿は見当たらない。


 焦る気持ちを抑えながら歩道に目をやると、陽太の目に奇妙な光景が飛び込んできた。

 黒いコートが脱ぎ棄てられ靴とバッグが無造作に転がっている。どれも奈々子のものに間違いない。

 状況が理解できず、陽太はキョロキョロとあたりを見回す。スタジアムのすぐ前の車線に回転灯をつけたパトカーと、ハザードランプを点灯した、一台のダンプカーが停車している。


 陽太はスタジアムに向かって一目散に駆け出した。


 いつの間にか雪は大きな粒に変わり、歩道のところどころが薄らと白くなっている。時折足を滑らせながら百メートル先の歩道橋に辿りつくと、階段を一気に駆け上がった。そして、パトカーの回転灯を目印にひたすら走った。


 産業道路は通行規制がされ、警察官の一人が交通整理を行い別の三人が運転手らしき男に何かを尋ねたり車道にマーキングを施したりしている。

 バンパーが凹んだダンプカーから二十メートル程先に人の形をしたマーキングと大きな染みが見える。その染みが何であるかはすぐに理解できた。

「急に女の子が飛び出してきて」。運転手の話し声とともに、どこからか犬の鳴き声が聞えてくる。警察官の一人がおびえた様子の小型犬を抱きかかえている。


「……違う……あいつじゃねぇ……絶対に違う……あいつのわけがねぇ……違う……あいつじゃねぇ……」


 白い息を吐きながら陽太は全身を震わせる。頭の中では、きずがついたCDのように同じフレーズが繰り返される。


 不意に手に持ったクリスマスブーケが落ちていく。

 それは、陽太の目に「あるもの」が映ったから――白い花をかたどったヘアピンがマーキングされていたから。

 大粒の雪が舞い落ちる中、陽太はその場から一歩も動くことができなかった。



 つづく

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