第14話 ラストラン


「陽太の手、温かかったな」


 左手の手のひらを見つめながら小さく微笑む奈々子。

 手のひらに雪の粒が舞い落ちる。一つ、二つ、三つ、四つ――数を数えていたが、途中からわからなくなった。天気予報で言っていたとおり、ホワイトクリスマスになった。


「トイレだなんて……プレゼントでも買いに行ったのかな?」


 レンガ造りのマンションの壁にもたれ掛かりながら奈々子はポツリと呟く。

 陽太のサプライズ計画はすっかり見抜かれていた。「わざとらしかった」と言えばそれまでだが、普段から奈々子が陽太のことをしっかり見ている証拠なのだろう。


「若いの、後ろに乗れ。これで彼女の後を追うぞ」


 背中からサンタの声が聞えた。

 振り返ると、そこには宙に浮いたそりに乗るサンタの姿。スポーツカーのコックピットのような操縦席に身体を倒すように座っている。トナカイの角のような形をしたチョッパーハンドルを握る姿は、アメリカの荒野をハーレー・ダビッドソンで駆け抜けるライダーを彷彿させる。

 陽太は素早くそりに飛び乗ると後ろの席に腰を下ろした。


★★


「あれ、何かしら?」


 暮れなずむ街を眺めていた奈々子が怪訝けげんな表情を浮かべる。

 それは、ちょうど産業道路の向こう側――スタジアム前の歩道に目を向けたときだった。


 奈々子がいる場所からマンションの階段を十段下りると幅三メートルの歩道。高さ一メートルの安全柵を越えれば上下六車線のサーキットのような車道。上り三車線と下り三車線の間にはガードレールで囲まれた、幅五十メートルの空間。スタジアム前の歩道はライトアップの灯りでその様子が見て取れた。


 上下線の車の流れが途切れたとき、奈々子の目に男性と思しき、二つのシルエットが映る。二人とも黒いジャンパーにジーンズといった出で立ちで、覆面レスラーのマスクのような、ニットの防寒具を被っている。

 キョロキョロと周りを見回しておもむろに足を止める二人。大きめのスポーツバッグを地面に置くと、一人がビデオカメラを、もう一人が黒い袋を、それぞれ取り出す。ビデオカメラを袋の方に向けて撮影をしている。


 そのとき、猛スピードで走る車が奈々子の視界をさえぎる。スタジアムへ横断するための歩行者信号が赤に変わり、車が一斉にスタートを切ったためだ。

 車道の青信号はさながらF1レースのスタートの合図。止まっていた車は我先にと加速しトップスピードで疾走する。制限速度などあってないようなものだ。


 車の流れが途切れると、奈々子の目に再び二人の姿が映る。

 一人が袋からを取り出して車道に投げ入れる。色や形ははっきりしないが、三、四十センチくらいの大きさの何かは。跳んだり跳ねたりはしていないが、小刻みにうごめいている。苦しそうにもがいているようにも見える。そして、その一部始終はビデオカメラで撮影されている。


「あれは……犬? チワワ?」


 そんな言葉を口にしたとき、チワワが奈々子の方へ身体を向けた。

 奈々子の目がまるで信じられないものでも見るかのようにカッと見開く。

 チワワは前脚と後ろ脚をそれぞれ細い糸で縛られて動けない状態にされている。そればかりか、口を糸でぐるぐる巻きにされて声も出せないでいる。身体の自由を奪われた犬が車道に放り出されているのだ。


 奈々子の目がさらに大きくなる。全身を震わせて荒々しい呼吸をしながら、何度も首を横に振る。


「……ダメ……ダメだ……絶対にダメだ……」


 苦しそうな言葉が漏れる。道路の上流に目をやると、三百メートルほど離れたところの歩行者信号が点滅を始めている。


『あそこまで、八十メートル? 九十メートル? いえ、百メートルはある。道路は雪で湿っている。間には柵もある。間に合わない』


 そんな考えが奈々子の脳裏をよぎった――そのときだった。

 ローファーが無造作に脱ぎ捨てられ、黒いコートが宙を舞った。


『間に合わない。普通の人なら。でも、わたしなら間に合う。絶対に間に合わせてやる!』


 マンションの階段を駆け下りた奈々子のしなやかな肢体が宙を舞う。まるでハードルを跳ぶように安全柵を飛び越え、そのまま車道を加速していく。


 サンタと陽太はそりで奈々子の後を追った。

 靴を履いていないにもかかわらず、奈々子は凄まじいスピードを発揮する。

 陽太は思った。「これまで奈々子は一度たりとも本気でなんか走っていなかった」と。


 歩行者信号が赤色の点灯に変わり車道の信号が青に変わる。信号待ちの車が一斉にスタートを切った。


 奈々子の前に現れたのは高さ一メートルのガードレール。いつも飛んでいるハードルよりも二十センチほど高い。ただ、奈々子には二十センチの差など取るに足りぬもの。文字通り、行く手をさえぎにはなり得ないものだった。

 白いガードレールの手前で再び奈々子の身体が宙を舞う。滞空時間の短い跳躍でスムーズに着地を決めると、五十メートルの広大なスペースに足を踏み入れる。さっきよりも雪の降りが激しくなり、アスファルトの表面が薄っすらと白くなっている。


 真っ白な息を吐きながら、奈々子は大きな目で一点を見つめる。そこには苦しそうにもがいている、チワワの姿。距離が三十メートルほどに縮まったことで、おびえた様子がはっきりと見てとれた。


『大丈夫。あなたは独りじゃない』


 心の中で呟きながら奈々子はさらにスピードを上げる。


 猛スピードで疾走する車両が百五十メートルの距離まで迫っている。

 先頭は荷台に砂利を積んだ工事用のダンプカー。雪で視界が悪くなっていることで黄色のフォグランプを点灯させているが、路上に横たわる、小さな犬に気づく様子はない。

 そんな状況にありながら、奈々子に不安はなかった。ダンプカーよりも速くチワワのところへ到達する自信があったから。


 トップスピードで駆け抜ける奈々子の目の前に三つ目のハードル――さっき飛び越えたのと同じガードレールが姿を現す。それを越えれば、あと十メートルでゴール地点。

 濡れた前髪を無造作にかきあげると、大きなストライドで間合いを計りながら右足で力強く地面を蹴った。

 奈々子の細身の身体が降りしきる雪を切り裂くようにガードレールを越えていく。白い息を立ち上らせながら宙を舞う、その姿は幻想的な雰囲気をかもし出し「雪の妖精」という形容がぴったりだった。


 しかし、奈々子にとって思わぬ誤算があった。

 そりがセピア色のガードレールをすり抜けた瞬間、陽太はに気づく。

 ガードレールの向こう側に直径が一メートルぐらいで深さが五十センチぐらいの穴がぽっかりと口を開けている。何の措置も施されていないところを見ると、陥没後ほとんど時間が経っていないようだ。あたりは薄暗く奈々子の位置からは死角になっている。


「奈々子! 止まれ! 止まるんだ!」


 陽太は大声で叫んだ。しかし、悲痛な叫びはセピア色の奈々子には届かなかった。ガードレールを飛び越えた彼女はすでに着地体制に入っている。


「あっ」


 奈々子は穴の存在に気付く。しかし、なすすべもなく右足は穴の中へと吸い込まれていく。勢いが付いているだけに、転倒して地面に叩きつけられるのは必至。大怪我が避けられない状況であることを奈々子は瞬時に悟る。


「冗談じゃない!」


 身体を捻りながら奈々子は着地する右足に全神経を集中する。

 足が地面に触れた瞬間、その足で思い切り地面を蹴った。鈍い音をたてて足首が九十度近く曲がる。両手をついて何とか勢いを殺そうとするが、そのまま上半身から車道へ叩きつけられた。セーターの肘から上がめくれ上がり、ブラウスの袖のボタンが弾け飛んだ。


 間髪を容れず、奈々子は視線を歩道の方へ向ける。手を伸ばせば届きそうなところにチワワがいる。チワワも奈々子の存在に気づいたようで心細そうにこちらを見ている。


「今、行くから!」


 チワワに向かって言葉をかけると、奈々子は必死に立ち上がろうとする――が、右足に激痛が走る。足首から先に力が入らない。苦痛に顔をゆがめながら何とか左足一本で立ち上がった。

 しかし、そんなことはお構いなしに猛スピードの車がすぐそこまで迫っている。クラクションを鳴らす車もいたが、先頭のダンプはチワワに気づいていない。もう時間がない。


 再び奈々子とチワワの目が合った。最後の力を振り絞って、奈々子は左足で力強く地面を蹴った。


『お願い。届いて』


 上半身から飛びこんだ奈々子は右手をいっぱいに伸ばすと、手のひらでチワワの身体をすくうように歩道の方へ弾き飛ばした。


 次の瞬間、鈍い衝突音とともに奈々子の身体が宙を舞った。

 車道に叩きつけられた奈々子はそのまま数メートル転がり、二十メートル先の路上に横たわった。アスファルトに積もった雪が少しずつ赤色に染まっていく。


 車両が停止し次々にドライバーが降りてくる。人気がまばらだったスタジアムの前は雰囲気が一変する。

 そんな様子を後目しりめに、二人の男は逃げるようにその場を後にする。


 冷たい道路の上に横たわる奈々子は、焦点の合っていない、うつろな眼差しを歩道の方へ向ける。スタジアムの灯りに照らされた歩道でチワワがもがいているのが見えた。


「……良かった……助かったんだ……あの子……」


 奈々子の顔が笑ったように見えた。


「……誰にも気づいてもらえないのは寂しいから……誰も助けてくれないのは悲し過ぎるから……陽太……プレゼント渡せなくて……ごめん……ね……」


 安心したようにゆっくりと目をつむる奈々子。

 必死に叫ぶ陽太の声は、決して奈々子に届くことはなかった。



 つづく

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