第17話 誓約と制約
★
「ただいま! 母ちゃん、見てよ!」
頼子が店のカウンターで引取り日の過ぎた衣服のチェックをしていると、入口の引き戸が開いてランドセルを背負った陽太が飛び込んで来た。
息を弾ませながら差し出した両手に、手作りの写真立てが握られている。
「おかえり。早かったね……写真立て? サンタとトナカイがいるってことはクリスマスだね。上手くできてるじゃない」
頼子の一言に陽太は満面の笑みを浮かべる。ホッとした表情が見え隠れしているのは、頼子がどんな反応を示すかずっと気になっていたから。
「図工の時間に紙粘土で作ったんだ。リビングに飾ってもいい?」
「もちろんだよ。もうすぐクリスマスだから一番目立つところに飾ろう。どんな写真を入れるかも考えないとね」
頼子は仕事の手を休めて、陽太の作品を笑顔で眺める。
「それならもう決めた。走りながら考えたんだ」
「さすがは陽太。準備万端ってとこね。それで? どの写真にするの?」
「これから撮ってもらう」
「えっ?」
口をポカンと開ける頼子に、陽太は
「サンタの服を着た俺が、このフォトフレームを手に持った写真にする。フォトフレームが目立つように撮ってよ」
「それはグッド・アイデアだね」
頼子は何度も首を縦に振る。お世辞でも何でもなく、それはとても良いアイデアだと思った。自分が作った写真立てを、陽太が自信作だと思っているのがひしひしと伝わってきた。
「でも、陽太?」
「なに?」
「あんたが手に持ってる写真立ての中に写真が入っていないけどイイの?」
「あっ、そうか……何も入ってない! う~ん……」
思わぬ指摘に陽太は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする。その顔を見た瞬間、思わず頼子は噴き出した。すると、釣られるように陽太も大きな声で笑う。
「アップルパイを焼いておいたよ。ダイニングのテーブルの上にあるから食べといで。手を洗うのを忘れちゃダメだぞ」
目尻に
「やったぁ! さすがは母ちゃん! 急いで走ってきたから腹がペコペコだ」
喜び勇んで陽太は店の奥へと向かう。頼子は再び衣服のチェックを始める。
「そうだ……母ちゃんに言っておくことがある」
不意に立ち止まると、陽太はゆっくりとこちらを振り返る。
「どうしたの? 何かあった?」
笑顔を浮かべる頼子に、陽太は少し恥ずかしそうに頭を
「俺……サンタになる。サンタになって、困っている人を助ける。みんなの願いを叶える」
陽太の目がキラキラと輝いている。頼子は思わずその瞳に吸い込まれそうになった。
「陽太、どうして今更そんなこと言うの? 前から『大きくなったらサンタになりたい』って言ってたじゃない?」
頼子がポツリと言った一言に、陽太は眉間に
「どうしてかな? 俺にもよくわからねぇ。でも、何となく思った。これから困っている人がいたら助けるし、願いがある人がいたら応援する。だから、母ちゃんも何かあったら言ってくれ。あっ、アップルパイ食べてくる」
陽太は足早に店の奥へと消えて行った。
『あの子……本当にサンタになってみんなの願いを叶えてくれそう』
陽太の後ろ姿を見ながら頼子はしみじみと思った。
学校からの帰り道、陽太がサンタに出会ったことを頼子は知らない。それは当然のこと――当事者である陽太でさえ、そのことをほとんど憶えていないのだから。
★★
「走ってやる。絶対にあいつより速く走ってやるよ」
「決心がついたようじゃな。では、『誓約書』の説明をさせてもらうとしよう」
「誓約書? そんなものがあるのか?」
「これがそうじゃ」
サンタは、
「――私はJTを受けるにあたり、試験の内容及び試験後の処遇について説明を受け、それに同意しました。試験中の事故等による損害について補償は一切求めないこととし、また、試験に合格した際には、決められた規則を順守しサンタとしての職務に専念することを誓います……一番下に名前を書くわけか」
誓約書をゆっくり読み上げる陽太。不意にその顔に笑みが浮かぶ。
「難しいことはわからねぇが、わざわざこんな紙にサインする必要なんかあるのか? どんなことでも百パーセント安全だなんてあり得ねぇし、合格したらサンタになるに決まってるじゃねぇか。意味があるとは思えねぇな。国連ってのはお堅いところだな」
「ふむ、公務員の
「おっさん、俺にそんな説明は要らねぇよ」
間髪を容れず、陽太は言い放った。
「説明を聞いたところで、俺には『試験を受けない』なんて選択はねぇ。今は時間が惜しい。少しでもトレーニングがしてぇ。サインなら今すぐする」
「気持ちはわかるが、ルールはルールじゃ。そう言うわけにはいかん。説明はしっかり聞くんじゃ。重要なことじゃからな」
不満を顕わにする陽太を
★★★
「サンタになった暁には、お前には日本を離れてわしらの本部へ来てもらう。そして、約百人のサンタと共同生活をしてもらう。具体的な場所は言えんが、ヨーロッパのある都市じゃ。何せわしらの存在自体が最重要機密じゃからな」
「母ちゃんや父ちゃんと離れて暮らすことになるわけか。でも、サンタにも休みはあるんだろ? そのときは日本へ戻ってみんなに会えるってことだよな?」
陽太は少し緊張した面持ちで尋ねる。
「仕事はハードじゃが休みは人並みにある。国連機関で過労死が出たなんて話は洒落にならんからな。DMCで座標を指定すれば、何千キロの距離も一瞬で移動できる。仕事の合間に日本に戻ることは可能じゃ」
「それなら何の問題もねぇよ。陸上の強豪校で寮生活を送っている連中は一年に一回か二回しか帰省できねぇそうだ。それよりも全然いいじゃねぇか。おっさん、そんな話、重要でも何でもねぇよ。改まって言うから、もっととんでもねぇことかと思ったよ」
陽太はホッとした表情を浮かべる。
「それより、そんなことを未成年の俺が決めちまっていいのか? サンタになるってのは未成年が職に就くってことだろう? 普通に考えれば、親の同意が必要なんじゃねぇか?」
サンタの顔から笑みが消える。目を逸らすように視線を窓の外へ向ける。
「保護者の同意は要らん。なぜなら、試験に合格した後、お前がどこへ行って何をしようが誰も気に留める者はおらんからな」
眉間に皺を寄せて
「気に留める者がいねぇ……? どういう意味だよ? まるでみんなが俺を無視するみてぇな言い方じゃねぇか」
陽太の問い掛けの後、しばらく沈黙が続く。
不意にサンタの鋭い視線が陽太に向けられる。
「お前がサンタになった瞬間、お前のことを知る者は誰もおらんくなる。『吉野陽太』という人間の存在は人々の記憶から消滅する。お前は最初からおらんかったことになる」
「なっ……」
陽太は言葉を失った。
サンタと初めて話をした者であれば、そんな非科学的なことは信じられなかっただろう。冗談か何かと思ったかもしれない。
ただ、DMCの存在や記憶操作の説明を受けた陽太には全てが理解できた。
サンタになること――それは大切な人たちの中から自分の記憶が消えてしまうこと。今の自分と決別することだった。
「三十九年前、わしには家族もいなければ友人らしい友人もおらなんだ。サンタになっても何も失うものはなかった。しかし、お前は違う。大切な家族や友人がおる。サンタになるためには、そんな人たちとの絆を断たねばならん。それは、厳格な機密保持のために定められたルールじゃ。ただ、誓約書にサインをする前なら後戻りはきく。もう一度よく考えて――」
「――考えることなんか何もねぇ」
サンタの言葉を
「簡単なことじゃねぇか。俺が試験に合格しなければ奈々子は助からねぇ。それなら、試験を受けないなんて選択はあり得ねぇ。おっさん、俺は誓約書にサインをする」
陽太は机の引き出しからボールペンを取り出して誓約書に名前を書き始める。
しかし、手が震えて上手く書くことができない。平静を装ってはいたが動揺を隠せなかった。歯を食いしばりながら陽太は何とか名前を書き終えた。
「書けた。確認してくれ」
陽太は
「なぁ、若いの。わしは今『悲しみ』と『喜び』を同時に感じておる。悲しみは、お前を苦しめてしまったことに対するもの。そして、喜びは、わしの目に狂いはなかったことに対するもの。
良い家族に
その瞬間、陽太の目から
「……合格する……合格して奈々子を助ける……あいつの夢を守ってみせる」
サンタの目をしっかり見つめながら、陽太は自分に言い聞かせるように言った。
つづく
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