第20話 新たな世界
★
セピア色奈々子が必死の形相で陽太の名前を叫び続ける。
すぐ近くにいるにもかかわらず、奈々子は陽太の姿を見ることもなく声を聞くこともない。もちろん、今何が起きているのかを知る由もない。
陽太の右手が奈々子から離れた瞬間、二人は別次元の存在となり、互いの距離はとてつもなく遠いものとなった。
「若いの、ようがんばった」
背中からサンタの声が聞こえた。
「正式な結果は本部から連絡があるが、間違いなく合格じゃ」
いつものように笑顔を浮かべるサンタに、陽太は背を向けたまま首を縦に振る。
「いいのか? 戻っても」
サンタの口から
自分の名前を呼び続ける奈々子を後目に、陽太は黙って頷く。
サンタがDMC端末を操作すると奈々子の声が小さくなっていく。
声が聞こえなくなったとき、陽太は自分の部屋にいた。時刻は午後四時二十分。相変わらず冷たい雨が降っていた。
「過去はまだ改変されておらん。DMCによる演算処理が終了した後、エラーチェックが行われる。処理が正常に終了したのが確認され次第、携帯に連絡が入ることとなっておる。過去改変が行われるのはそれからじゃ。そろそろ、連絡が来てもいい頃じゃな」
サンタは陽太が試験に合格した前提で話を進めている。変化した過去を現実に反映させるには、いくつか手順を踏む必要があるようだ。
「過去が改変されたことを認識できるのは、DMCの安全装置に守られた者だけじゃ。つまり、わしらサンタ以外は誰も過去が変わったことに気がつかん」
サンタが
「もしもし。ふむ……吉野陽太は合格……DMCの演算処理は正常終了……五分後に過去改変……了解じゃ。DMCの安全装置はこのまま働かせておく。では、五分後にな」
サンタは携帯電話を上着のポケットに仕舞うと、笑顔で陽太の方に目をやる。
「JTの結果は合格じゃ。これでお前は晴れてわしの後継者となった。それから、五分後に過去改変が行われる。それにより、夏目奈々子は生き返り、吉野陽太は消滅する。どうじゃ? 今のうちに家族と話をしておくか?」
「必要ねぇ。俺は奈々子が生き返ればそれでいい。それ以外は何も望まねぇ」
サンタの言葉に陽太は無表情で言い放った。
★★
雨の粒がパラパラと窓を打つ。時折閃光が走り遠くで雷鳴が
そんな音に交じって階下から人の声と犬の鳴き声が聞えてくる。頼子とノエルが散歩から帰って来たようだ。
「そろそろ時間じゃ」
サンタはDMC端末で安全装置の状況を確認する。
―― 過去改変モード展開三十秒前 ――
どこからか、女性に模した、DMCの音声が聞こえてくる。
窓の外をぼんやりと見つめる陽太。
「なぁ、おっさん?」
「なんじゃ?」
「奈々子は……助かったんだよな?」
「ああ、そうじゃ」
サンタの言葉を聞いて、陽太は感慨深げに首を何度も縦に降る。
「……ありがとな。おっさん」
短くて素っ気ない一言――それは陽太の感謝の気持ちが詰まったものだった。
陽太の表情はとても
―― 過去改変モード展開十五秒前。カウントダウンを開始します ――
静かに目を閉じると、様々な出来事が走馬灯のように蘇る。
これまで辛いことや悲しいこともあったが、浮かんでくるのはうれしいことや楽しいことばかり――両親の笑顔、友だちの笑顔、そして、奈々子の笑顔。すべて陽太が「守りたい」と感じたものばかりだった。
―― 十、九、八、七 ――
陽太は思った。「もし自分が死んでしまったら、みんなの笑顔は涙と悲しみに暮れるだろう。しかし、自分が存在した記憶が消え失せるのなら誰も悲しむ人はいない。そういう意味では良かったのかもしれない」と。
最後まで、大切な人たちに笑顔でいてもらえたのだから。
―― 三、二、一、過去改変を実行します ――
陽太はゆっくりと目を開けた。
窓からオレンジ色の明るい光が差し込んでいる。雨はすっかり上がり、空には夕焼け雲が広がっている。
部屋の中を見渡したが、特に変わった様子はない。
「……おっさん、世界は改変されたのか?」
「されたとも。一階に行って確認するといい。大丈夫じゃ。DMCの安全装置が働いておる。わしらの姿は誰にも見えやせん」
サンタに言われるまま、陽太は階段を下りていった。
リビングルームの中を見回したが、陽太の部屋と同じで特に変わったところはない。応接セットのレイアウトや壁の色、それに部屋のあちこちに写真が飾られているところも以前のままだ。
しかし、一枚の写真を覗き込んだとき、陽太は息を飲んだ。
写っているのは、両親と手をつないでサンタのコスチュームを着た、小さな男の子の姿――陽太ではない、別の男の子の姿。
すぐに他の写真に目をやったが、どの写真の男の子も陽太ではなかった。
「そういうことじゃ」
そんな声を無視するかのように、陽太はリビングを飛び出した。向かった先は頼子が働くクリーニング店。
玄関を出て店の入口から中を覗くと、鼻歌を歌いながらパソコンの端末を操作する頼子がいた。その様子は普段のまま。見たところ何も変わっていない。
陽太の顔に
不意に頼子が陽太の方へ視線を向ける。その顔にはいつもの笑みが浮かんでいる。思わずうれしさがこみ上げてくる――が、すぐにそれは悲しみへと変わっていく。
「母ちゃん、ただいま! 腹減った。何かない?」
「おかえり。早かったね。アップルパイを焼いておいたから食べといで」
トレーニングウェアに身を包んだ、高校生ぐらいの少年が陽太の身体をすり抜けるように入って来た。
頼子の笑顔は、陽太ではない、別の誰かに向けられたものだった。
「洋介! ちゃんと手を洗うんだよ!」
少年の後ろ姿に目をやりながら、頼子は姿が見えなくなるまでずっと優しい眼差しを送り続けた。
陽太は魂の抜け殻になったように肩を落とすと、そのまま店の外へと歩き出す。しかし、二、三歩、進んだところで膝から崩れ落ち、両手を地面に着いた。
「俺は……どこにもいねぇ」
焦点の合っていない、虚ろな視線でアスファルトの路面を見つめながら、陽太は全身を震わせる。
「そうじゃ。ここはお前のいる場所ではない。お前が必要とされる場所は他にある。さぁ、わしといっしょに行こう」
サンタは傷心の陽太を励ますように肩にポンと手を置く。
こうなることはわかっていた。覚悟はできていた。ただ、心のどこかで希望を抱いていた。「母親の頼子なら自分のことを憶えていてくれるのではないか」と。
しかし、それは
「俺のこと知っている奴は誰もいねぇ。俺は……独りぼっちに……なっちまった」
陽太は必死に
そのときだった。
陽太の背後から地面を蹴るような音が聞こえた。
音は少しずつ大きくなり陽太の後ろでピタリと止む。そして、それにとって代わるように荒い息遣いが聞こえた。
陽太は耳を
つづく
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