第18話 デジャブ


 六月三十日土曜日。午後三時五十七分。

 空は分厚い、黒い雲に覆われ降り続く、冷たい雨は一向に止む気配がない。あたりは夕暮れのように薄暗く、時折雷鳴がとどろく。


 階下から犬が鼻を鳴らす声が聞えてくる。ノエルが「散歩に連れていけ」といった意思表示をしているようだ。

 ほとんどの犬にとって散歩の優先度はえさの次に高い。雨が降ろうがやりが降ろうがその位置づけが揺らぐことはほとんどない。


 しばらくするとノエルの声が聞えなくなった。

 おそらく頼子が散歩に連れて行ったのだろう。

 

 携帯の時刻表示が「16:00」に変わった。


「ふむ、時間どおりに待っているとは感心、感心。近頃の若い者ときたら時間にルーズじゃからな。そうじゃ。下におったのはあのときのチワワじゃな? お前も犬も元気そうで何よりじゃ」


 ドアの方から聞き慣れた、穏やかな声が聞こえてくる。

 陽太の目に恰幅かっぷくの良い男の姿が映る。

 真っ白な髪と真っ白な顎鬚あごひげ。大きな目と大きな鼻。赤い上着と赤いズボン。そして、両手には白い手袋――すべては半年前と同じだった。


 にこやかな表情を浮かべるサンタに陽太は軽く会釈をする。


「なかなか良い目をしとる。顔つきも大人っぽくなったな。お前さえよければ始めるが……どうじゃ?」


 濃紺のランニングシャツとショートパンツを身に付けた陽太は、シューズのひもをしっかりと結び直すと、ゆっくりと首を縦に振った。

 サンタは右手の手袋を外すと陽太の前へ差し出す。手袋をじっと見つめる陽太。思い立ったようにそれを手に取って自分の右手に通した。


「行くとしようか」


 周りが漆黒しっこくの闇へと変わる。数秒後、陽太の目の前にセピア色の街が現れる。あたりは静寂に包まれ全ては静止している。試験開始までサンタが時間を止めているのだろう。

 レンガ造りのマンションの脇には、今にも走り出しそうな奈々子の姿があった。それは、この半年間一度たりとも忘れたことなどなかった光景――ずっと待ちわびていた光景だった。


★★


「よっしゃー!」


 電光掲示板に「10.68」というタイムが表示された瞬間、陽太は両手のこぶしを高々と突き上げて天を仰いだ。


 六月中旬に行われたインターハイ予選南関東大会。一年生ながら100m決勝に進んだ陽太は一着でゴールを駆け抜け、全国大会の切符を手にする。

 ただ、順位も全国大会出場も陽太にとっては取るに足りないこと。重要なのは「10秒71を切ること」。半年間、彼はそれだけを目標に走り続けた。


 西北実業進学と同時に陸上部に入部した陽太は、上級生を抑えて100mの代表に選ばれる。そして、五月初旬の地区予選で快走を見せ、南関東大会へと歩を進める。

 しかし、地区予選でのタイムは「10秒73」。それを目の当たりにした瞬間、陽太はガックリと肩を落として悔しさをにじませた。焦りといった方が正しいかもしれない。


 その日から陽太の練習量がさらに増加する。

 残された時間は二ヶ月足らず。結果が出なければ希望は消え失せる。そう考えると居ても立ってもいられなかった。

 陸上部の練習が終わった後も残って練習を続けた。その理由を理解している者は誰もいない。まさに毎日がプレッシャーとの戦いだった。


 そんな陽太に力をくれたのが愛犬の存在だった。

 サンタに会った日の翌日、陽太は、奈々子が命をかけて救ったチワワを引き取ることを決めた。前日とは打って変わった、陽太の様子に両親も二つ返事で了承し、「ノエル」と名付けられたメスのチワワが家族の一員となる。


 しかし、ノエルは誰にも心を開かなかった。

 いつも何かにおびえるような目をして、えさも食べなければ触れられることも拒否した。

 身体中に殴打された傷があり、歯が欠け四肢ししがおかしな方向に曲がっていた。それは恒常的に暴力が振るわれていた証拠。

 どれくらいの期間なのかはわからないが、ノエルは、動物を虐待して楽しんでいる連中のおもちゃにされていた。あの日、ぼろ雑巾のように車道に捨てられたのは、おもちゃとしても役に立たなくなったからだろう。


 人間に対する、ノエルの不信感を払しょくするのは至難のわざだった。

 頼子は口にこそ出さなかったが、心の中では半ば諦めかけていた。ただ、ノエルの存在が陽太の心の支えになっていることは明らかで、祈るような気持ちで日々ノエルと接していた。

 陽太は家にいるとき、いつもノエルといっしょだった。理解できないとわかっていながら、奈々子の写真を見せながら彼女のことを話して聞かせた――飛びきりの笑顔を浮かべて。時に涙しながら。


 そんな中、三ヶ月が経った頃、ノエルの様子に変化が生じる。

 陽太と頼子に寄って行くようになり、二人のそばで眠るようになった。

 よどんでいた瞳に光が戻り、どこか安らかな表情が見て取れた。心の傷が完全に癒えたわけではない。しかし、良い方向に向かっているのは確かだった。

 そんな愛犬の変化を目の当たりにして、陽太は「ある希望」を抱いた――「九十九パーセント不可能なことであっても諦めなければ奇跡は起きる」と。


★★★


「なぁ、おっさん?」


 ストレッチをしていた陽太が、不意にサンタに話し掛ける。


「変なこと訊くようだけど、小さい頃、俺はおっさんに会ったことがあるんじゃねぇか? いつ、どこでなのかは憶えていねぇが、何か大切な話をしたような気がする」


 サンタは驚いた様子で陽太の顔に視線を向けると、フーっと小さく息を吐く。


「若いの、『デジャブ』という言葉を聞いたことがあるか?」


 返って来たのは答えではなく質問だった。

 すぐに陽太は首を横に振る。


「日本語では『既視感』などと呼ばれておるが、簡単に言えば、初めて見る風景や初めて会った者に対して『以前どこかで見たり会ったりしたことがある』と感じることじゃ」


「俺の言ったことが、まさにそのデジャブって奴か?」


「そんなところじゃ。デジャブを見る者は体質に原因があると言われておる。つまり、一度見た者は繰り返し見る傾向にある。お前はこれまでデジャブらしきものを見たことがあるか?」


 サンタの質問に陽太は考える素振りを見せる。


「言われてみれば、何度かあったような気がする。ほとんど忘れちまったけど、憶えているのは奈々子に初めてあった小学六年のときのことだ。

 走り終わったあいつの笑顔をどこかで見たことがある気がした。そのときは記憶違いだと思って気にも留めなかったけどな」


「ふむ。おそらく、それもデジャブじゃ。デジャブのメカニズムとして、実際体験したことを本人が忘れているとか、夢と現実を混同しているとか、生まれ変わる前の記憶が残っているとか、これまで様々な説が提唱されてきた。ただ、誰も提唱していないものが一つある。わしらサンタだけが知り得るものがな」


 眉間にしわを寄せる陽太を後目しりめにサンタは続ける。


「DMCの過去改編機能の発動結果じゃよ。つまり、誰かの記憶を消すことで、それに関連する過去の出来事が修正される。辻褄つじつまを合わせるということじゃ。

 例えば、過去に起きた大災害が起きなかったことになれば、それに関係した者の記憶から『大災害が起きた』という事実だけを消せばいいというものではない。それに起因する事象をすべてなかったことにして、派生する記憶や出来事をすべて理路整然と整理しなければならん。

 そんな膨大な作業を行うのがDMCじゃが、過去に干渉する行為は必要最少限に抑えることとしておる。DMCの演算能力にも限界があって、むやみやたらに行えば収拾が着かんようになるからな。

 DMCも万能ではなく、人間の潜在意識に眠る記憶まで完全に操作できていないのが現状じゃ。結果として、それがデジャブとして残る。改変される前の体験や記憶が朧気おぼろげに残っておるわけじゃ。

 そう考えれば、お前はどこかで夏目奈々子の笑顔を見ているのかもしれん。彼女への思いが強いことで、お前の心がそんな風に整理してしまっただけかもしれんがな」


 陽太は二度、三度頷くと、再び真剣な眼差しをサンタへ向ける。


「それで、俺とおっさんは以前会ってるのか?」


 逸れてしまった話を元に戻すように陽太が尋ねる。


「ふむ。どうかのぉ。それについてはJTの後で話すこととしようか」


「否定しなかったってことは会ってるわけだな? 俺は『デジャブ体質』なわけだ」


「そうかもしれんな」


 サンタは白い口髭くちひげを撫でながらいつもの笑みを浮かべる。


 質問には答えてもらえなかったが、デジャブに関するサンタの説明は陽太の心に強く響いた。

 奈々子を救えば陽太の存在は人々の記憶から消え失せる。しかし、DMCの過去改変機能とて完璧なものではなく、断片的に改変前の記憶が残ることがある――それは「吉野陽太が消え失せてしまうとは限らないこと」を意味する。

 とは言いながら、それは偶然性に左右される事象であり、家族や友人、そして、奈々子の心に陽太の記憶が残ることが何ら確約されるものではない。結果が伴わなければ、サンタの言葉は期待を持たせるだけの「残酷な言葉」に成り下がる。

 しかし、陽太にとっては「大きな希望」――ノエルの心を開くことや奈々子の命を救うことに匹敵するぐらい、大きな希望だった。


「おっさん、準備OKだ。始めようぜ」



 つづく

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