第19話 陽太


「おっさん、準備OKだ。始めようぜ」


 陽太は自分の太腿ふとももを両手でパンパンと叩く。気合を入れるため、走る前にはいつもやっていることだ。


「ルールはわかっておるな?」


 サンタが心配そうに尋ねる。


「ああ。おっさんが重要だって言ったからしっかり頭に叩き込んだ。

 JT開始一分前に、俺の目の前に陸上の電光掲示板みたいなものが現れる。そこに表示されるタイムが『10.71』になった瞬間、奈々子はダンプにかれる。その前に手袋をはめた右手であいつを捕まえてに連れてくる――それでいいんだろ?」


 陽太は表情を変えることなく淡々と答える。


「ふむ。それでいい」


 陽太が思いのほか落ち着いていたことで、サンタは安堵あんどの表情を浮かべる。そして、ポケットから携帯を取り出すと、二言三言、言葉を交わす。


「今本部に連絡を入れた。JT開始二分前じゃ。一分後に時間は動き出す。わしは一旦本部に戻る。ここにいたら、うっかりお前に声をかけてしまうかも知れんからな」


 サンタは両手で陽太の右手を取って瞳をじっと見つめる。両手にグッと力が入る。


「悔いの無いようにな」


 そんな言葉を残して、サンタは姿を消した。

 ほぼ同時に、セピア色の世界の時間が動き出す。


 ―― JT開始一分前。受験者はスタートラインについてください。スタートの合図は赤と青のランプ及び音声で行います。三つの赤いランプに続き青いランプが点灯したらスタートです。フライングは失格となりますので、くれぐれもご注意願います ――


 どこからか女性を模した声が聞えてくる。

 目の前に「00.00」と記されたタイム表示と四つのランプが浮かび上がる。さらに、道路の路面には、スタート地点を示す「赤色のライン」、走路を示す「青色のライン」、中間地点を示す「黄色のライン」が現れた。

 スタート地点には足を固定するためのスターティングブロックは見当たらない。ただ、このコースは雪や風といった天候の影響も受けなければ、進路に立ちはだかる障害物の干渉も受けることはない。スターティングブロックがないことを差し引いても好タイムは期待できる。


 ―― JT開始十秒前。受験者はスタートラインに着いてください ――


 腰を落として姿勢を低くする陽太。両手を赤色のスタートラインへ置く。


 ―― 八、七、六、五、四 ――


 カウントダウンの音声に合わせて赤いランプが一つずつ点灯していく。

 横目でマンションの方を見ると、黒いコートが宙を舞った。


『奈々子、待ってろ』


 陽太の腰が上がり身体の重心が前へと移動する。


 ―― スタート ――


 青色のランプが点灯した瞬間、陽太は右足のつま先で力強く地面を蹴った。

 抜群のスタートが切れた感触があった。


 陽太の目の前に歩道の安全柵――奈々子が華麗に跳び越えた、一つめのハードルが姿を現す。加速した陽太の身体が柵をすり抜けていく。

 正面からは大粒の雪が混じった風が吹きつけている。ただ、目には見えているものの雪や風を受けている感覚は全くない。路面には薄らと雪が積もっているが、足元が滑るようなこともない。雪も雨も風もなく、暑くも寒くもない環境で、競技用の陸上トラックを走っているような感覚だった。


 奈々子が二つめのハードル――高さ一メートルのガードレールを跳び越える。着地の瞬間、足を滑らせている。普通に考えれば、お世辞にも良いコンディションとは言えない。

 陽太は安全柵同様にガードレールをすり抜けると、上下の車線を分離するスペースを、奈々子を目標に疾走する。

 いつもよりも身体が軽い感じがした。天候や障害物の干渉を一切受けることがないのがその理由であるが、それにしても「軽過ぎる」と思った。

 黄色いラインが引かれた中間地点の通過タイムが「4.76」。それは男子100mの世界記録9秒58をも上回るペースだった。


 普段なら、間違いなく計測機器の故障だと思っただろう。

 ただ、陽太が走っているのは普段とは次元が異なる世界。文字通り「次元の違う走り」ができてもおかしくないと思った。

 さらに、奈々子に追いつくことだけを考えている陽太にとって、それは、プラスにこそなれマイナスになることではないと思った。


 陽太の目に三つめのハードル――先程と同じガードレールが映る。

 そのすぐ先には、道路が陥没かんぼつしてできた、大きな穴がぽっかりと口を開けている。


 不意にある考えが陽太の脳裏をよぎる。


 奈々子の死因はダンプにねられたことによる外傷性ショック。ただ、あの穴に足をとられて転倒しなければ、そのまま走り抜けて犬の身柄を確保することができた。結果として、右足首を骨折した状態でダンプの前に身を投げ出すこともなかった。

 あと数メートルで穴の位置に到達する。このペースで行けば、陽太は奈々子の着地点に先回りすることができる。奈々子を受け止めることで、骨折も転倒もなかったことにできるのだ。


 奈々子は世界を席巻するスプリンターであり続けなければならない。この怪我が原因で走れなくなることなどあってはならない。

 それは、奈々子が抱く夢がついえてしまうことを意味するから。


『俺はどんなときもお前のそばにいる。お前の夢が叶うまでずっとそばにいる。決してお前を見捨てたりはしない』


 小学六年生のとき、奈々子に告げた言葉が蘇る。

 あのとき、陽太は心に決めた。奈々子の夢のために全力を尽くすと。

 

 陽太のギアがトップに入る。ガードレールの直前で奈々子に並びかけると、跳躍する彼女を後目しりめにガードレールをすり抜ける。

 足を止めて振り返った陽太。目に映ったのは、大粒の雪といっしょに落ちてくる奈々子の姿。その表情は驚きと苦悩で満ちている。

「間に合った」。心の中で呟きながら、陽太は奈々子を受けとめようと腰を落として両手を広げる。


 次の瞬間、「別の考え」が陽太の脳裏をよぎる。


 目を大きく見開いた陽太は、白い手袋をはめた右手を自分の身体の後ろへ回す。奈々子の身体は、陽太の左手をすり抜けて穴の中へと吸い込まれていった。


「奈々子、許してくれ。ここでお前を受け止めたら、あいつが……ノエルが助からねぇ」


 歯を食いしばって悔しそうな表情を浮かべる陽太。苦痛に顔をゆがめる奈々子を断腸の思いで見つめる。


 立ちあがった奈々子はノエルの方へ視線を向ける。ノエルの目が「助けて」と言っているように見えた。

 奈々子は最後の力を振り絞って左足で地面を蹴った。


 ノエルの身体が宙を舞いながら歩道へ吸い込まれていく。ダンプの前に投げ出された、奈々子の身体をヘッドライトが照らす。細身のシルエットが影絵のように浮かび上がった。


 急ブレーキの音とともに、奈々子の身体が宙を舞う。

 斜めに停車したダンプからドライバーが血相を変えて飛び出してくる。あおりを受けた、後続の車両数台が停止し、怪訝けげんな表情を浮かべたドライバーが次々に車から降りてくる。

 産業道路は二車線が閉塞しあたりは騒然となった。


★★


 目を開けた奈々子は違和感を覚える。

 自分の身体が横向きになって、その瞳には雪が舞い落ちるシーンが映っていたから。そして、誰かに抱きかかえられる感触があったから。

 顔を左の方へ向けると、そこには、両手で奈々子の身体をしっかりと抱える陽太の姿があった。


「陽太……? わたし、生きてるの? 車にねられたと思ったのに……あっ! あの子は? あのチワワはどうなったの!?」


「歩道にいる。お前が助けたんだ。よくがんばったな」


 心配そうな表情を浮かべる奈々子に、陽太はとびきりの笑顔を見せる。


「よかった……陽太、ありがとう。わたしを助けてくれて」


 奈々子の一言に思わず熱いものがこみ上げる。

 陽太は視線を逸らしてグッと唇を噛んだ。


「でも、どうしてそんな格好してるの? いつの間に着替えたの?」


 真冬にランニングウェアを身に付けている陽太を、奈々子は不思議そうな目で見つめる。


「ちょっとな」


 陽太は目をうるませながら奈々子の顔を感慨深げに見つめる。


「陸上大会でもないのに、おかしな陽太……でも、心配かけてごめんね」


 陽太が心配していたことを悟ったのか、奈々子は申し訳なさそうな顔をする。


「謝ることなんかねぇよ。こうして無事だったんだから……俺の方こそゴメン。ずっと近くにいたのにお前のことよくわかってやれなくて」


 最後の言葉の意味がわからず、奈々子はきょとんとした表情を浮かべる。

 しかし、何かに気付いた素振りを見せると首を何度も横に振った。


「陽太こそ謝ることなんかない。わたし、陽太がいてくれたからずっとがんばってこれたんだもの。陽太にはすごく感謝してる。これからもずっと私のそばにいて欲しい」


 陽太の顔をじっと見つめる奈々子に、陽太は努めて笑顔を見せる。

 不意に、奈々子の顔に戸惑いの表情が浮かぶ。


「よ、陽太、これってもしかして……『お姫様抱っこ』じゃない!? は、早く降ろして!」


 顔を赤らめながら奈々子は恥ずかしそうに視線を逸らす。


「わかった。でも、ここは危ねぇから歩道まではこのままで行く。それと、お前は右足を骨折してる。すぐに救急車を呼んで病院へ行くんだ。わかったな」


 奈々子とは対照的に陽太は冷静だった。右手を奈々子の身体から放さないように注意深く彼女を運んだ。


「奈々子、俺さ、お前より速く走れたんだ。タイムは10秒68。お前ならすぐに超えちまうかもしれねぇけどな」


 陽太は視線を宇宙そらに向けるとポツリと言った。

 相変わらず大粒の雪が舞っている。


「そうなの? いつの間にそんなタイム出したの? 全然知らなかった……でも、すごいじゃない。おめでとう」


 虚をつかれたような表情を見せる奈々子だったが、すぐに笑顔がそれにとって代わる。

 車線ではダンプカーのドライバーがしきりに誰かの姿を探している。その横を、奈々子を抱きかかえた陽太が通り過ぎる。もちろん二人のことを認識できる者は誰もいない。


「俺、これまでずっとお前を目標にしてきた。ずっとお前に勝ちたいと思ってきた。でも、ただの目標じゃなかった。お前といっしょに走れてすごく楽しかった。お前といっしょに過ごせて本当に幸せだった。奈々子、ありがとな」


 陽太の言葉を耳にした瞬間、奈々子は違和感を覚える――このまま陽太がどこか遠くへ行ってしまうような気がした。


「どうしてそんな言い方するの? もう二度と会えないみたいな言い方だよ。陽太、何だか寂しそう。それに、大人っぽく見える」


 心配そうな奈々子を歩道に座らせると、陽太は手袋をはめた右手で彼女の左手をぎゅっと握りしめる。そして、瞳をじっと見つめた。


「お前より速く走ることができたら、言おうと思ってたことがある……聞いてくれるか?」


 いつもの陽太でないことはすぐにわかった。笑顔を見せてはいるが悲しい気持ちが見て取れ。無理して笑っているのは明らかだった。

 しかし、奈々子には黙って頷くことしかできなかった。


「俺……お前のことが好きだ。これからもずっと好きでいる。一生お前のこと、好きでいるから」


 大きな目をさらに大きくして驚きを隠せない奈々子。次の瞬間、その驚きは「別の驚き」へと変わった。

 左手の温もりが消えると同時に、陽太の姿が消えてしまったから。


「陽太、どこ? どこへ行ったの?」


 白い息を吐きながら、奈々子は狐につままれたような顔をする。右足をかばうように立ち上がると目を皿のようにして自分のまわりを見渡した。しかし、陽太の姿はどこにもなかった。


「陽太、戻ってきて! お願いだから! わたしを独りにしないで! 陽太!」


 セピア色の空間に奈々子の悲痛な声が響き渡った。



 つづく

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