(補足2-渡航申請とは)
「我が社」に属する人間は、私用で海外旅行をする際、事前に「渡航申請(正式には海外渡航承認申請)」を出して、所定の管理者から「承認」を得ることを求められます。
申請書類には、以下の項目を明記することになっています。
①渡航先(国)
②旅行日程(詳細を別紙で添付)
③渡航目的
④招へい者(先方から招待を受けて渡航する場合)
⑤旅費負担者
⑥同行者
⑦渡航期間中の職務の処理方法
一見、奇妙に思われるのは⑤でしょうか。「旅費負担者」のところに「親」と書く人間がいるのか大変興味深いところですが、そういうケースがあったという話は、私は聞いたことがありません。
多少物議を醸すのは、⑥と⑦のように思われます。一人旅の場合、「同行者」のところは「なし」と記入することになるのですが、童顔おチビな私などは、書類を見たお節介なおじさん連中から、
「一人で大丈夫なの?」
「外国は危ないんだから」
「向こうの治安とか、ちゃんと調べたの?」
「暗くなってお外に出ちゃいけないよ」
というようなことを、散々に言われました。気にかけてもらえるのは有難いですが、成人後に「初めてのおつかい」的な扱いを受けるのは、やはり凹むものでございます。
⑦の項目には、同僚の名前を入れて「不在間、担当業務は〇〇に代行させる」という旨の文言を書いていた記憶があるのですが、これは平たく言えば、「私めが遊び回っている間、私の仕事はこいつが肩代わりします」という内容になります。
当然、名前を書かれるほうは面白くありません。そこをいかに快くOKしてもらうか。普段の人間関係が試される場でもあります。
大抵の場合、申請は出せば通ります。所属組織によって書類にハンコを押す人数は若干変わってきますが、最終的な承認権者が申請内容を承認すると、「〇〇長の印」という類のバカでかい印鑑が押された「海外渡航承認書」なるものが発簡され、ようやく海外旅行に出発できることになります。
細かい旅行日程は文書が発簡された後でも差し替えできるので、詳細が固まっていない時点でも申請は可能です。最新の行動予定は、直属の上司さえ把握していれば、問題ないからです。渡航先の国まで差し替えるのは、さすがに無理だと思われますが……。
出発日が差し迫っている時は、宿泊先も決まらないまま書類だけ回してしまうこともあります。いよいよ時間切れの危険性が高い場合は、申請者本人が書類を持ってハンコ集めに事務所内を回ることもありました。
この場合は、「全くの私用でしかも遊びの話なのに超急ぎの案件」で人の手を煩わせることになるので、関係者にいかに快くハンコを押してもらうか、やはり普段の人間関係が試されることになります。
ただ、渡航先が日本と微妙な関係にある国だったり、当人の所属部署が微妙だったり、国内もしくは部内で微妙な問題があったりした場合は、「不承認」となることもあります。
私の先輩の中に、不幸にしてこの「不承認」を食らった人がいました。彼は、周囲の面々とスケジュール調整して一週間の夏季休暇を確保し、航空券と宿泊先も予約して、旅行代理店にお金を振り込んで準備万端、というところで申請を出しました。
ところが、彼の上司は、書類を見た途端に速攻却下。理由は、先に挙げた「微妙三条件」をすべて満たしているから、と言うのです。
普段から用心深い性格の上司に、
「今の『我が社』の状況でさあ、しかもうちの課の所属でさあ、何で某国に行こうとか思うわけ? ちょっと自覚足りないんじゃない?」
と、ストレートに怒られた先輩は、旅行代理店に莫大なキャンセル料を支払い、泣く泣く引きこもりの夏休みを過ごしました。
その上司が説教がてら話してくれたのですが、先輩が旅行先に選んだ某国は、当時はビザを申請しないと入国できない状態で、ここが一番の問題だったのだそうです。
ビザを申請した時点で、渡航者は、氏名、現住所、職業など様々な個人情報を在京大使館に提供することになります。警戒心の強い国々は申請書類から得られる情報をもとに「何らかの調査」を行う可能性も否定できず、目を付けられると、入国したとたんに訳の分からない理由で現地の公安に拘束され最悪外交問題に……、という恐れもあるのだとか。
件の某国は、確かに警戒心が強そうな上に、大変なお金持ちで、日本国内においても強力なネットワークを持っていることが容易に想像できました。数多くのビザ申請者の中から先輩をピックアップし、短時間で彼の素性を把握することなど朝飯前かもしれない……。
上司にすっかり脅されて、私も先輩と一緒に震えあがったものでございます。
ちょっとコワイ話になってしまいましたが、もう少し柔らかい問題で申請にケチがつくこともあります。
私が若い頃におじさんだった人が、「僕がもちょっと若い頃の話」として語っていたことなので、相当昔の出来事になるのですが、その彼が地方で小さな部隊の長をやっている時に、渡航申請の件で困ったことが起きたのだそうです。
ある時、彼の管轄下にある人間の一人が、渡航申請を出してきました。特に渡航制限をかけなければならない状況もなく、すでに当人の直属の上官は判を押していました。自分も所定の欄にサインをしてとっとと上位の管理者に回すだけ…、と思いつつ、申請書類の中身にざっと目を通しました。
渡航先は、東南アジアの某小国になっていました。現在はその国向けのパックツアーも数多くありますが、その当時は、「観光先としてはやや珍しい国」という印象だったのだそうです。
部隊長の彼の職場は、緊急時を除き五時で営業終了、という環境でした。夕方に受け取った件の渡航申請は日程的に余裕もあるし、五時過ぎに書類を回しても関係者には迷惑がられる、ということで、彼は申請書類を未決箱に置いたまま、職場を出ました。
その足で、彼は同期と飲みに行きました。同期も別の隊の部隊長をしていました。二人で仕事の愚痴話をうだうだとしていて、ふと、海外旅行の話になりました。
以下、証言に基づいて再現した二人の会話。
「そういえばさあ、うちの若いので、夏の休みに某国に行くって申請上げてきた奴がいるんだよ。あんなマイナーな国に行って楽しいんかな?」
「え、お前んトコも? うちにもいるんだよ、某国に行くって奴。今日、申請書が回ってきて……」
「へえ。偶然だねえ。お前のトコの奴も夏休みに行くような日程?」
「確か、盆前の……」
「あれ、うちのもそんな日付だったような……」
「一緒に行くんかな? でも、『同行者なし』になってたと思ったけど」
「俺んトコのも『同行者なし』だったな……」
二件の渡航申請は、渡航先と渡航時期が同じで、しかし、同行者はなし。二人の人間が、たまたま、同じ国を、同じような時期に、別々に旅行することになったのか……。
その時、頭脳明晰な二人の部隊長は、とある予感を得ました。
「うちの申請者、女なんだけど……」
「え、俺んトコ、男」
「つ、つまり……」
「つまり、……か?」
おそらくこんな会話をして別れた二人の部隊長は、翌日、それぞれの個室にこもり、内線電話で話しながら、それぞれの手元にある渡航申請書類の中身を突き合わせました。
冒頭で、申請書類には旅行日程の「詳細」を添付する旨を書きましたが、その詳細部分には、現地での行動内容のみならず、搭乗するすべてのフライト便名、発着時刻、現地滞在都市名、宿泊施設の住所及び電話番号までを、明確に記載することが求められています。
件の二つの書類の添付資料にも、その規則に従ってきちんとした内容が書かれていました。それを逐一チェックすると……、すべてが完全に一致していました。
違うのは二人の性別と苗字だけ。
普段は即断即決の部隊長二人は、すっかり困惑してしまいました。
申請を出してきた若い部下二名は、別に「我が社」の規則に違反しているわけじゃない。「未婚の男女が二人で海外旅行に行ってはならない」という決まりはないのだから。しかし、しかしなあ……。
同行者がいるところを「なし」と書いた点で、「虚偽の記載ではないか」と指摘することはできるが、なぜ虚偽と分かったか、それを言うのもなんだかなあ……。
謀議の結果、「見なかったことにしよう」という結論に落ち着いたそうでございます。
ある意味、プライバシーの侵害と言えなくもない渡航申請ですが、規則は規則ですので、「我が社」に所属する限り、順守しなくてはなりません。
第8話登場のEさんの時は、渡航申請の問題に関しては、甘々な処理で終わりましたが、後に別人による無断渡航事案がマスコミで報じられたため、それ以降は明確な罰則規定が設けられ、現在に至っているようです。
罰則規定に関する文書には、違反行為の事例がいくつか挙げてあるのですが、その中に、
「申請手続において真実の渡航内容等を知られたくないため、無断渡航すること」
「申請手続において真実の渡航内容等を知られたくないため、虚偽等の不正な申請手続を行い、海外渡航すること」
という二つの文言があります。
これらはどのようなシチュエーションを念頭に置いて書かれたのだろう、と大変に興味深いところです。
まあ、婚前旅行に関しましては、周囲にとやかく言われるのを恐れて規則違反を犯すより、「婚前ですが、何か?」という勢いで、シャイな部隊長さんたちを圧倒していただくのが吉、というのが個人的見解でございます。
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