(第8話)ガチな不倫はネタにするのも恐ろしい(Ⅵ)
年度末、私は、回覧されてきた人事発令書にD氏の名前が載っているのを見た。彼が東京から離れることを確認し、一安心した。Eさんは同じ敷地内にいるが、彼女の新しいポストは、私の仕事とは全く接点がない。
もう、この二人とは金輪際関わらずに済む。
……と思っていたら、二年後、D氏が再び私の前に現れた。定期異動で、よりによって私の所属部にやって来たのだ。わずか二年で「
どうでもいいが、出来る限り近寄りたくないなあ。
……と思っていたら、各課に挨拶回りをしていたD氏が、私の姿を見つけて、つかつかと歩み寄ってきた。
そして、ひきつっている私のほうに顔を寄せ、
「心機一転、頑張るので、よろしく」
とだけ言って、去っていった。
なんだ? 過去のことは喋ってくれるな、という意味だったのか? そんな口止め、必要ないっての。あんな気持ち悪い話、誰がベラベラ喋るか!
……と、怒っていたら、D氏が着任して数カ月もしないうちに、妙な噂が聞こえてきた。
『D氏は、年下の女にいいように騙されて、さんざん貢がされた挙句、家庭も出世もパアにしたらしい』
ひそひそ話に興じる連中は、Eさんの名前にも言及していた。いったい、どこからその話を仕入れたのだろう。
確かに、D氏とEさんの仲については、かなりの人間が知っていた。しかし、二人が別れ、D氏が東京を離れてからの二年間、そのテの噂話は全く出回らなかった。皆、終わった話をつつき回るほど暇ではないのだ。
それがなぜ、二年後になって、蒸し返されることになったのか。
しかも、「いいように騙されて、さんざん貢がされた」という部分まで人様の口に上っているのは、全く解せない。
D氏がEさんにしてやられたことを知っているのは、同じ敷地内で働く約一万人の人間の中で、おそらくたった一人だけのはず……。つまり、私だけだ。
私は、何も喋ってないぞ! 神かけて何も喋ってないぞ!
しかし、状況的には、噂の情報源は私しか有り得ない。「待ってくれ、私は無実だ!」と言っても、D氏は絶対、私が話をばらまいたと思うだろう。そう思い込んで、逆ギレするかもしれない。
何しろ向こうは、もはや家庭を失い、出世の可能性もなく、いつ自暴自棄になってもおかしくない状態なのだ。
どうも、我が身の危険を感じる。取りあえず、夜遅くまで残業して気が付いたら部屋にD氏と二人だけになっていた、ということにならないよう、気を付けなければ。
……と、戦々恐々としていたところ、D氏と同じ課に所属する先輩が、私のところにやってきた。
彼は、D氏の名前を上げ、
「あの人と仕事したことあるんだって?」
と聞いてきた。
「上下関係にあったわけではないですけど、カウンターパートだったことはあります」
「そっか。……あの人、前から、あんなんだった?」
あんな、って何だろう。私が尋ねると、その先輩は当惑の表情を浮かべて声を落とした。
「あの人、博識で仕事できるって前評判だったけど、……飲みに行くたびに女に振られた話しててさ、『俺はあいつに騙されて、もてあそばれたんだ。家族も何も失ってしまった』みたいなこと、グチグチ言ってんだよ」
何と! 蒸し返された噂の情報源は、当人だったのだ。あのエロオヤジ、Eさんへの腹いせに、不倫話を自ら言いふらしてるのか。最低のアホだ。
さすがにEさんが気の毒になった。制裁人事をくらった彼女は、部署こそ違っても、同じ敷地内に勤務している。いずれD氏がまき散らす悪意の噂話を耳にすることになるだろう。職場に居づらくなって、今度こそ辞めてしまうかもしれない。
……などと思っていたら、さらに一年ほどが経って、Eさんと顔を合わせる機会があった。
その時、私は定期異動で初めて東京を離れることになっていて、仲の良かった面々が送別会を企画してくれたのだが、その彼らがEさんにも声をかけたのだ。どうやら、私とEさんが普通の友人関係にあると思い込んでいたらしい。
久しぶりに会ったEさんは、相変わらず美しく、元気そうだった。ある程度過去を知る私と顔を合わせても、にこやかな表情を浮かべていた。
まあ、不倫事案からは、もう三年が過ぎている。「過去は過去」と気持ちを切り替えて頑張っているのだろう。そんな彼女が、クソオヤジD氏に遠慮する必要はない。
昔の話は忘れたことにして、Eさんと乾杯した。薄く紫の入った目元に笑みを浮かべた彼女は、私の異動先のことを尋ねてきた。
「今度行かれる所は、全体的に若い人が多いんですか?」
「うん、たぶんね。今のトコよりは平均年齢はかなり若いと思う」
「いいなあ。羨ましいですう。イキのいい若いオトコがいたら、ぜひ紹介してくださいよお」
そう言って、Eさんはビールか何かを一気に飲んだ。
あのな、ひとこと言っていいか。いい加減にしろ!!
*******
何と醜悪な展開! 何と醜悪な結末!
しかも、おじさんのほうが捨てられてるし!
これだから不倫バナは嫌なのでございます。他の勤勉な面々が身を粉にして働いているというのに、そのすぐ傍で、当の二人は見苦しく騒いだ挙句、己の不始末から何も学習していない……。
懲りない奴ら、という意味では、お似合いの二人だったのかもしれませんが。
社会倫理に反する関係とはいえ、なぜ、自分のために家族まで捨ててしまった人に「結婚するつもりで付き合ってたんじゃないんだけど」というようなことを、しれっと言い放つことができるのでしょう。
なぜ、こっぴどくフラれたからと言って、一度は深く愛した相手を口汚く罵ることができるのでしょう。
あまりにも、あまりにも、美しくない!
不倫といえども、「人を好きになる」という想いだけは、ピュアなものではないのか!
相手を心から好きになり大切に想い合う、ただそれだけの美しい不倫バナは、この世の中には決して存在し得ないのかあ!
と、我を忘れて怒りまくっていたその時、オタクの神から第二の啓示を受けました。
汝の望むところを書け!
自分が書くお話の中だけなら、いくらでも非現実的な美しい不倫バナを作れます。そのテの描写にさえ気を付ければ、誰かに後ろ指をさされることもありません。たぶん……。
よっしゃ! リアルでは目も当てられないほど見苦しかった不倫バナとは真逆の、「清く切なく美しい年の差不倫バナ」を書いてやる! これまでに心の奥底に溜まった諸々を、全部ブッ込んですっきりしてやる!
私は迷わず、理想の不倫物語を考えるという、極めて不真面目な妄想生活に入る決意をしたのでございます。
ところで、清く切なく美しい恋バナを考える場合、メインキャラクターは、男女とも必然的に「生真面目で誠実なタイプ」となります。しかし、ここでひとつの問題が発生します。
生真面目で誠実な人たちは、そもそも、初めから不倫なんて状況には至らないのではないか……。
生真面目な女性は、人様のものを奪おうとはしない。
誠実なおじさんは、若い独身女性を誘ったりしない。
なんだか、初っ端から行き詰まる予感がしてまいりました。生真面目で誠実な二人をくっつける方法はあるのでしょうか……。
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