(第8話)ガチな不倫はネタにするのも恐ろしい(Ⅴ)


 当日、件のワインバーに先に着いた私は、後から二人が合流する旨を店員に告げ、窓際の席に案内してもらった。


 一人で赤ワインをちびちび飲んでいると、しばらくして、ぼそぼそした声が、「忙しいのに悪かったね」と話しかけてきた。

 顔を上げると、D氏だけがぼうっと立っていた。


「え、お一人、ですか?」


 そう言いつつ、Eさんと一緒に職場を出て来るわけにもいかなかったのかもしれない、と思った。

 不倫関係にあることが露見したのなら、二人一緒に歩いているだけで、周囲から好奇と軽蔑の眼差しを向けられるに違いない。Eさんは一歩遅れてくるのだろう……。


 ところが、D氏は不思議なことを口にした。


「もう、彼女とは会えないんだ」


 は? 「会えない」って何だ。今日だって、同じ部屋のあの窮屈そうなスペースで、二人一緒に仕事してたんじゃないのか。

 怪訝な顔をする私に、D氏は再びぼそっと呟いた。


「彼女は、もう……いなくなってしまった」


 D氏の話では、Eさんは年明け早々に、同じ敷地内のとある部署に異動したのだという。


 通常、私や彼女のような下っ端は、年度の変わり目、すなわち春に異動することが多く、「不定期の異動」は、上位組織からの引き抜きというケースでもない限り、概してマイナスのイメージでとらえられている。早い話、Eさんは制裁人事をくらったのだ。

 お気の毒だが、仕方がないとしか言いようがない。


 しかし、すでにEさんの処遇に決着がついたのなら、D氏はいったい何の用で私を呼び出したんだ。

 ますます怪訝な顔をする私に、D氏はとうとうと喋り出した。


 彼女は本当に魅力的な子だった

 在日米軍の下士官と結婚すると聞いた時は、

 とにかく彼女を救ってやらなければと思った

 可憐な彼女が、その場の雰囲気に騙されて、

 異国へ連れ去られるのを、看過できなかった

 彼女が不幸になるのを黙って見ているくらいなら、

 自分が彼女と結婚してやりたい、と思った……



 あのう、最後の方のお言葉、少しおかしいですよ。もしかして、Eさんと下士官殿の恋に反対したのは、壮大な下心があったんですかい?

 しかし、私が合いの手を入れる隙もなく、D氏の独白は続く。


 渡航申請の件は本当にショックだった

 私の説得を聞いてあの下士官と別れてくれたと

 思っていたのに……

 しかし、あの騒動を通じて、

 彼女は完全に彼のことを忘れてくれた

 そして、やっとこっちを見てくれたんだ……



 職場で孤立していた彼女を庇ったのは、もはや壮大な下心以外の何物でもなかったんだな。

 そう確信したら、恐ろしいほどの寒気がした。当時、Eさんは上司の偽りの優しさに庇われていたのだ。


 青ざめる私の前で、エロオヤジD氏はさらに語る。  


 彼女と食事を共にするようになり、

 すぐに休日に一緒に出掛けるようになった

 仕事をしている時も、楽しかった……



 そりゃそうでしょうよ。各国の政府関係者が集うレセプションで、人脈作りもせずに、意中の女性とずっと喋りまくっていらしたんだから。


 しかし、ひとつ疑問が湧いた。休日にEさんとばかり出かけていて、奥さんに気付かれなかったのだろうか。さすがにそこまでは聞けないが……、と思っていたら、テレパシーが通じたのか、D氏が勝手に答えてくれた。


「カミさんは、国に帰っちゃってね」


 えっ! そ、そそそそ、それじゃあ……。


「ああ、これで彼女と結婚できる、と思って」


 そういう発想にいくんかい! お気楽で身勝手な奴だなあ。まあ、つまり、奥さんとはすでに離婚したわけですか。

 そ、それで、Eさんに結婚を申し込むつもりなんですかい?


「ついこの間、プロポーズしたんだ」


 ひえええ! 早えええ! すげええ! じゃ、十歳以上の年の差婚だ!


「そしたら、『私、そんなつもりで付き合ってたんじゃないんだけど』って言われてしまった……」


 D氏はそう言って、がっくりと首を垂れた。


 な、な、なんだそれ! もしかして、十歳以上年下のEさんのほうが上手うわてだったってやつか! 

 紫のメイクがお似合いだった彼女は、一体どんな顔をしてD氏を幸福の絶頂から突き落としたのだろう。


 想定外の結末にただただ驚愕していると、D氏はいきなり「ああ……」と盛大なため息をついて、天井を振り仰いだ。


「彼女とのあの日々は何だったんだ。いろんな所へ連れて行って、高いものを食べに行って、いろいろと買ってやったりもした。軽く百万は投じたのに」


 知るかそんなもん。あんたが好きで金出しただけだろーが。


「家庭を壊されて、出世も棒に振って、それでもいいと思ってたのに」


 そう思うのは、あんたの独りよがりってやつだろ。


「今でも忘れられない。彼女のあどけない寝顔も、彼女の髪の手触りも、心臓の音も……」


 うげっ。き、き、きききき、気持ち悪いいいい! 特に最後のやつ! これ以上聞くと吐きそうだ。何でそんな話を私にするんだよ! そういうことを言いたいために、わざわざ私を呼び出したというのか!


 おじさんの風上にも置けぬエロオヤジの姿を見て、彼の思惑をぼんやりと悟った。

 こいつ、もしかして、傷心の己を私に慰めてほしいと思ってるのか。顔見知りの私に、何か奇妙なことを期待してるのか。童顔おチビの女でいいから(以下省略)、ってことなのか……。


 私は財布から千円札を二枚取り出して、テーブルの上に置いた。そして、「明日、早いのでもう帰ります」とだけ言って、席を立った。

 D氏は唖然とした顔を向けてきたが、私は躊躇なく彼を置き去りにして、店を出た。


 建物の外に出ると、最寄り駅へと一目散に走った。汚らわしい空気がまとわりついているような気がして、とにかくそれから逃れたかった。




(Ⅵに続きます。もうひと騒ぎあります)

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