(補足1-幹部名簿とは)


 私が勤めていた所にいた人たちは、己の所属する組織のことを概して「我が社」と称していたので、ここでもその呼称を使うことにいたしますが、第6話後編で出てきた「幹部名簿」とは、「我が社」に属する制服幹部四万二千名余の主要経歴が記載された一覧表のようなものです。


 この名簿を見れば、すべての幹部の生年月日、各階級昇任日、人事異動歴、過去に受けた研修名、取得資格などが、顔写真と共に一目で分かるようになっています。一頁に五名ほどが載っていますが、何しろ人数が多いので、陸海空の「色」別、階級別に複数冊に分かれています。

 ちなみに、「幹部」とは3尉(少尉相当)以上のいわゆる「士官」を意味します。


 時々ネットの質問サイトなどで、


「自衛官の彼と付き合っています。現在〇歳で「△△」という階級だそうです。『幹部』だということですが、彼は出世するのでしょうか」


 などという質問を見かけますが、そのテのことは、ギョーカイ人が幹部名簿を見れば一発で判断できます。


 最終学歴は一目瞭然ですし、経歴を見れば、当人が出世コースにいるか否かもだいたい分かります。


 もちろん、高卒入隊者でも、種々の選抜試験を突破して、大卒者以上に出世するケースも多々あります。ごく稀ではありますが、高卒幹部で将官まで上り詰める「伝説の人」もいます。

 ただ、そういう下剋上を展開するお方の実力は経歴に如実に現れますので、やはり幹部名簿を見れば、出世する御仁か否かを見極めるのは容易いのです。


 残念ながら、名簿自体は門外不出の品となっておりますので、一般の方が直接見ることはできません。

 しかし、部内に知り合いがいれば、もしかすると何らかの有益な情報を得られるかもしれませんので、婚活の際には、可能な限り情報収集に努めることをオススメします。


 なお、自衛隊を含む公務員の世界は、給与面ではほぼ年功序列です。拙作「カクテルの紡ぐ恋歌うた」の第二章「『直轄ジマ』の人々」で登場する「富澤3等陸佐」は、「三十代に入ったばかりのエリート」という設定ですが、彼のような立場の幹部と五十代の古参下士官とどちらの年収が高いかと言えば、圧倒的に後者です。階級と年収は、全く無関係なのです。


 おまけに、幹部は原則的に全国勤務ですが、下士官の場合、本人が希望しない限り人事異動の範囲は限定されます。引っ越しが必要な場合はありますが、それでも電車で数時間ほどの圏内をぐるぐる回る程度です。

 親元からあまり離れたくないという方は、下士官と結婚するほうがいいかもしれません。実際、そういうウラ事情を良く知っている女性の中には、幹部なんぞには目もくれず、敢えて下士官限定で婚活に励む方もおられるようです。

 


 私は、第6話の「お見合いランチ」事案の時に、初めて幹部名簿なるものの存在を知りました。

 実のところ、目を輝かせて名簿を見ていたTさんが羨ましくなり、後日になって「うちに幹部名簿は置いてあるか」と自分の上司に尋ねたことがあります。


 その時、回覧物か何かを読んでいた上司は、特に気も留めず、

「あー、そこの棚に入ってるぞ」

 と、近くの書棚を指さしました。


 言われた場所の扉を開くと、Tさんが見ていたものと同じ幹部名簿が並んでいました。


 その一冊を取り、パラパラと中を見ましたが、とにかくすごい人数です。2佐、3佐(中佐、少佐相当)でもたくさんいるのに、Tさんのお好みの若い殿方がひしめき合っていそうな2尉(中尉相当)あたりになると、とても全部見きれないのでは……。


 と、いらぬことを心配していると、奇妙なことに気が付きました。膨大な数を記載している幹部名簿の並び順に、規則性がないのです。

 あいうえお順でもない、生年月日順でもない、学歴別というわけでもなさそう……。


 どういう並びになっているのか、と上司に尋ねると、彼は読み物から目を離さずに答えました。


「成績順だよ」


 成績? 通信簿みたいなのがあるんですか?


「人事評定をもとに序列が決まるんだ。平たく言うと、次の階級に上がるのが早い順に並んでるってこと」


 もっと平たく言うと、同じ階級の全員が「出世する順番」に記載されている、ということです。何ともエグい名簿です。


 ちなみに、ここで言う幹部の「成績」とは、幹部候補生学校や各種研修課程などで修めた文字どおりの成績、普段の勤務状況、海外派遣などの実績、その他諸々を勘案した人事評価のことを意味するのだそうです。

 これには健康問題も含まれており、幹部の方々の中には、本当は入院加療したほうが好ましいという状況にありながら、序列が下がるのを懸念して働き続けてしまう人もいるのだとか。現実は常にツライものです。


 そんな話を聞いて、ふとことが気になりました。私は別の一冊を取り出し、ついつい真顔になってせっせと頁をめくりました。成績順などという分かりにくい順番で記載されているおかげで、ターゲットはちっとも見つからない。


 若干いらいらしながら名簿とにらめっこしていると、読み物をしていたと思っていた上司が、私の手元を覗き込んでいました。


「……言っとくけどな、オレの序列を調べようなんてしたら、真面目にぶっ飛ばすぞ」


 あひっ! バレバレでしたか。すんません、つい出来心で。


「全く、油断も隙もありゃしねえ」


 上司は私から幹部名簿をひったくると、それを書棚に放り込み、鍵をかけてしまいました。

 私の悪巧みを即座に見破るとはさすが百戦錬磨の管理職、と恐れ入ったものでございます。


 *追記:3尉の幹部名簿のみ、あいうえお順になっているそうです


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