第9話 日本文学に救いを求めよ!


 私は間違っても文学少女ではありませんでした。物心ついて間もなくアニメオタクとして覚醒しましたので、活字より漫画とアニメを愛し、暇さえあればチラシの裏に落書きをしているような子供でした。

 中学生になり二次元の殿方に恋をして、高校生になりおじさん妄想癖が身に着くと、ますます本を読まなくなりました。辛うじて読んでいた文章と言えば、受験勉強で嫌々やる国語の問題文ぐらいです。


 こんな調子なので、私の両親は、ことあるごとに「本を読め」と口うるさく言っておりました。

 実家の書棚には、インテリアとして日本文学だの世界文学だのがちょろちょろ並んでおりましたが、見るからに絶対つまらなそう。一応ちらりと覗きましたが、第一印象のとおり、やはりつまらない。小難しい言葉が小難しく並ぶばかりで、無意味に鬱な感じですし、情景描写はだらだら長く、登場人物の思考回路は全くもって理解不能……。


 こんな調子なので、夏休みの宿題で出される読書感想文は、中高時代の私にとって最大の悩みでした。

 何が嫌と言って、「これを読むべき」というような押し付け感が実に不愉快です。「好きな本を選んで感想文を書く」という課題なのですから、どんな本を選んでも文句を言われる筋合いはない、と思うのですが、世の中、そうはいかないようです。

 

 私の両親は、非オタクだったせいか、世間体を重視して、子供の好みを全く尊重しないタイプでした。読書感想文も例外ではありません。いや、夏休み明けの授業参観時に廊下に掲示される読書感想文だからこそ、彼らにとっては特にこだわるべき問題であったのだろうと思われます。

 他の子供たちが年齢相当の課題図書や「名作」と呼ばれる純文学作品を題材に取り上げる中、自分の娘が「某SFアニメのノベライズ作品」で感想文を書いて、それが他の保護者の目に触れるなんてことになったら……。まあ、非オタクには耐えがたい事態かもしれません。



 中学三年の夏だったかと記憶しますが、親から、読書感想文用にと一冊の本を渡されました。見るからに拒否感を覚える分厚い文庫本は、山本有三の「路傍の石」でした。ごついなあ、と思いながらも、当時は良い子だったので、仕方なく読むことにいたしました。

 


 「路傍の石」の舞台は明治時代。主人公の吾一ごいちは、貧しい没落士族の家に生まれた少年です。頭が良くて評判だったのですが、何しろ家が貧乏なので、地元に新しくできる中学(現在の高校)に進学したくても金がない。

 さらに、彼の父親はクソ親父で、武士の血筋という時代遅れのプライドにとらわれ、働きもせず訴訟やら政治活動やらに明け暮れている有様。ついには、子供の貯金を使い込み借金まで重ねるという、大変な鬼畜ぶりです。


 吾一をとても可愛がっていた小学校の恩師の次野つぎの先生は、貧しい彼を何とか進学させてやりたいと思い、地元のお金持ちに相談します。

 このお金持ちは、以前から吾一母子と親しく、自分も学問好きだったので、先生に賛同して学費を出すことを決意しました。


 ところが、クソ親父は、息子の進学にも、他人から学費支援を受けることにも、大反対します。結局、吾一は入学金を用意できず、中学校を受験できませんでした。そればかりか、クソ親父の借金のカタに奉公に出されるという、全く想定外の事態に。

 ちなみに、このクソ親父は、我が子との別れを嘆くどころか、「吾一が女だったら高く売り飛ばせるのに」という意味のことを口にするほど、想定外に筋金入りの鬼畜野郎でした。


 吾一の奉公先は学校の友達の家でもある商家だったのですが、かつての友達は手のひらを返したように彼を下僕扱いし、他の先輩使用人たちもかなり意地悪。おまけに、デキの悪いこの「友達」は、フタを空ければ定員割れ状態だった中学にしれっと入り、学校の宿題を吾一にやらせたりする、これまた凄まじい鬼畜ぶり。


 目も当てられない最悪な生活を、主人公は健気に耐え忍ぶのですが、母親が亡くなったことでついにキレ、奉公先を飛び出して、東京で政治運動をやっているというクソ親父を探しに行きます。

 ところが、東京でも悪質な奴らとばかり出くわし、いろいろとヒドイ目に遭いながら流浪の民のごとき生活に陥ります。なんとか見つけた職場でも、意地悪な大人たちにいじめられる毎日。悔しくて泣く吾一に、唯一優しくしてくれる「じいや」は、こう言って慰めます。

「あい手がまちがっていても、口ごたえをするんじゃないよ。(中略)何事も辛抱するんだよ。黙って働くんだよ――(原文ママ)」


 そんなある日、吾一は、小学校時代の恩師である次野先生とばったり再会します。兼業作家となって東京で暮らしていた次野先生は、ここで衝撃の事実を告白。

 なんと、吾一を憐れんだお金持ちから内々に預かっていた「学費」を使い込んでしまった、というのです。当のお金持ちが亡くなった後、次野先生は、奉公先から逃亡した吾一の行方を探していたのですが、自分の奥さんが病気になり、治療費が工面できずに、預かっていたものから一部を抜き取り、やがては治療費以外のことにもそのお金を使い始め……。


 使い込んだ分はいつか必ず穴を埋めなければと思っていた、と詫びる恩師を前にして、主人公吾一はこう思います。

「先生はなんという正直な人だろう(原文ママ)」

 そして、「せめて夜学の月謝を払う」という先生に感謝して、酒を注いであげるのです。



 私はこの時点で読むのを止めました。以下、その時の私の感想。



 正直な人だあ?

 この主人公、ありえないだろ?

 私が吾一少年だったら、その場で思いっきりぷっ刺すわ!


 

 本を読んでこのように強烈な感情を抱いたのは、この時が初めてでした。しかし、学校に提出する読書感想文に「思いっきりぷっ刺すわ!」とは書けません。受験を控え、内申点に悪影響を及ぼすような言動は控えなければならなかったからです。

 結局、巻末のあとがきだか解説だかを七割ほど書き写して、「読書感想文」として出してしまいました。盗作との誹りを受けても言い訳できない体たらくでございます。


 この一件で、日本文学は完全に大嫌いになりました。「路傍の石」全編にわたり、「クソな年長者に黙って従うのが若者のあるべき姿」という主張がなされているような気がして、どうにも納得できなかったのです。

 親だろうが恩師だろうが、けしからんものはけしからんし、大人が子供に意地悪するとは言語道断。そういう輩は成敗されてしかるべき。それを、「辛抱するんだよ」とか言ってるから、こんなブラックな世の中になるんだ! クソな年長者は、全員ぷっ刺してくれるわ!



 ところが、文学から離れて十年ほど経った頃から、「ぷっ刺すべき」と思っていた次野先生に、しばしば思いを馳せるようになりました。

 彼の取った行動は、ということに、遅ればせながら気付いたのです。


 働き始めて四、五年も経てば、少しは世の中が見えてきます。職場にいる人間たちや結婚し始めた友人たちの繰り広げるドラマを目にして悟ったのは、「この世の中、人生を決定づける要素の半分以上は『運』なのだろう」ということでした。

 努力しても、ごくごく真面目に生きていても、運がなければ報われず、道を踏み外すことさえある。残念ながら、それが現実です。


 キャリアウーマンの友人は、高校時代の同級生と十年間の交際を経て結婚しました。旦那となった殿方は、優しく生真面目な高学歴のエリートさんでした。しかし、「完璧」と思われたその旦那氏は、転職がきっかけで浮気に走り、結婚生活はわずか二年で終焉を迎えました。


 たまたま、旦那氏が転職した直後、世の中の景気が急速に悪化して、転職時の条件とは全く異なる畑違いの部署に放り込まれてしまったから

 たまたま、友人は旦那氏と同等の経済力があり、それが「元」エリートの旦那氏には妬ましく映ったから

 たまたま、旦那氏の会社に「オトコ漁り」をするド派手女がいたから

 たまたま、旦那氏の実家はその女に目を付けられるほど金持ちだったから

 たまたま、旦那氏と友人の間には、子供がいなかったから――


 もし、このどれか一つでも欠けていれば、友人と旦那氏は、多少の波風はあっても、ずっと仲良く暮らしていたかもしれません。



 私より十歳ほど年上の知人男性は、家庭の悩みにつけこんできた悪人にそそのかされ、法を犯し、最後は警察沙汰になってしまいました。この件についてはさすがに詳細を書くことはできませんが、最悪の事態に至るまでの流れは、先の離婚の話と似ています。


 たまたま、家の中に大きな心配事があったから

 たまたま、周囲に支えてくれる人間がいなかったから

 たまたま、タチの悪い人間と接触する機会があったから

 たまたま、悪いカネを不用心に受け取ってしまったから

 たまたま、法を犯せる環境にあったから――


 もし、このどれか一つでも欠けていれば、この知人はきっと、定年まで立派に働く人生を歩んだであろうと信じています。すべての運が悪い方向にはたらいてしまったのだと、思わずにはいられません。


 「路傍の石」の次野先生も同じです。彼が悪事を働くまでには、複数の不運が重なっているのです。


 もちろん、浮気して友人を捨てたクソ旦那氏を擁護しようとは思いませんし、法を犯した知人をかばうつもりもありません。もし自分が吾一なら、取りあえずぷっ刺してから、次野先生の身の上話を聞くだろうと思います。


 ただ、次野先生の心境を慮れるようになってからは、「世の中をすべて『べき論』で片付けることはできない」と、少しクールダウンして物事を考えるようになりました。「べき論」を貫きたくても、不運が重なってどうにもならない時がある。その結果として起こる裏切りや犯罪行為は、決して理解不能な悪行ではない。悪い行いには違いないですが(念のため)。


 お蔭で、今では「べき論だけでは生きられない」というのが私の座右の銘となっています。

 何人も、悪意がないまま道を外してしまう危険と、完全に無縁ではいられません。裏切りや犯罪というレベルにまでは至らなくても、力及ばず不義理をしてしまうことは、大いにあり得る話です。

 不義理な奴と出会っても、表面だけを見てすぐに怒ってはいけない。不義理は日常茶飯事ぐらいに思っていたほうがいい。よく考えたら、私だって、いろんなところで不義理をやらかしているではないか……。あ、金銭面を除きます。念のため。



 ……と、過去の不甲斐ない己の姿を思い出すに至りすっかり打ちひしがれていたある日、いきなりオタクの神から第三の啓示を受けました。



 汝の悟りもネタにせよ!



 神羅万象すべてネタ。私の周囲にいる人間も、酒の席で聞いた話も、自分で開いた悟りも、すべては創作のネタになる。ただでさえ引き出しの少ない人間は、わずかなネタをも活用しなければならぬ。


 よっしゃ! 目にしたものすべてをネタ候補にして、ごくごく真面目な女の人とごくごく真面目な既婚おじさんがくっつくシチュエーションを考えるんだ!


 自省の念などすっかり吹き飛んでしまった私は、懲りずに理想の不倫物語を考えるという、まるで進歩のない極めて不真面目な道を邁進する決意をしたのでございます。



 取りあえず、「不運なたまたまの連続」をコンセプトに、フォーマットを作ってみます。


 ①たまたま、二人が出会うきっかけがあったから

 ②たまたま、二人が「二人だけで会わざるを得ない」出来事があったから

 ③たまたま、二人がより親しくなるきっかけとなる出来事があったから

 ④たまたま、既婚者の側に、わずかな心の隙があったから

 ⑤たまたま、二人に一線を越えさせる、些細なきっかけがあったから


 「もし、このどれか一つでも欠けていれば、真面目な独身女性と真面目な既婚おじさんは、気安く話ができるだけの上司と部下で終わっていた……」という空気感を全編に漂わせれば、不倫バナを美しくまとめられるかもしれぬ。

 おじさんが女の人を想いつつ離れていく、というラストに繋がれば、私的にはもう幸せです。


 ちなみに、「おじさんが若い女とくっついて激甘シーンで終わり」なんてのはありえないし、私がリアルで目撃した不倫バナのように「おじさんが若い女に捨てられて終わるラスト」なんてのは断じて却下。

 私は、己の趣味に忠実なオタクなのでございます。



 やっと骨格がぼんやり見えてきたところで、最大の問題は②の設定です。二人で「会う」ではなく、二人で「会わざるを得ない」というところがポイントです。ここを間違えると、主要キャラの二人が、軽々しいただの不道徳な人間になってしまいます。

 例えば、「真面目で内気な独身女性が、殿方にサシで飲みに行くことを提案する」という展開は、全くもって不自然です。逆に、真面目な既婚オジサンは、どんなにイケメンでも、女性に「サシで飲みに行こう」なんて誘いの言葉を軽々しくかけることはありません。後々セクハラ問題に発展してしまう危険性があるからです。良いおじさんは、残念ながら、概して用心深いのです。


 となると、「サシで会う場面」には、やんごとなき理由を設定しなくてはなりません。二人以外はシャットアウトする必要がある状況。手っ取り早いのは「秘密の共有」でしょうか。


 しかし、何を「二人の秘密」にするか、これまた悩ましいところです。職場での「秘密」と言ったら、派閥争い、内部告発、産業スパイ……。どれも敷居が高すぎます。特に、後の二つは、取り扱う業界の知識が相当ないと、とても書けるものではありません。

 もういっそのこと、ホントのスパイ話にしてしまおうか。おじさんの職業が「実はスパイ」という設定なら、「やや影がある」という条件もクリアして、まさに理想のおじさんキャラが出来ちゃうかも……。


 ところが、国際社会を舞台に考え始めた途端、やはりまとまらなくなってしまいました。書きたいのはあくまで「おじさんと二十歳年下の女の人のアカン恋」なのに、そんなに大風呂敷を広げてどうする……。

 おまけに、本業のスパイのお話となると、敵方とのアクションシーンはおそらく必須。メカ音痴の私にどうにかできる問題ではありません。


 ああ、ハンドガンもナイフもカーチェイスもヘリコプターも出てこない、それでもスパイチックな舞台はないものか。


 ものぐさな私がものぐさそうにうだうだと呟いていると、オタクの神がご降臨なさったか、にわかに、いい候補をひとつ思いつきました。



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