終章
廃墟やがれき、野山や田畑が混在する町に、珍しく雪がうっすらと積もった冬のある日。遠い日に駆けた寺院もどきの研究所とは比べるべくもない、こじんまりした寺の奥にある墓地を、
極度に人口が減少し、多くの文化が廃れた昨今、仏式の墓に入りたがる者は少数派である。真人が周囲を見回しても古い墓ばかりで、ここ数年に設置されただろうものはなく、墓石もなく空いたスペースが目立つ。参拝者も皆無だ。
山の麓に位置し、かろうじて人通りがある表通りからも離れているので、そちらからの喧騒は遠い。春であれば花見に訪れるアンドロイドで賑わう敷地内からも、冬の終わりではまだ閑静なままだ。豊かな流れの上に架けられた小さな橋を渡ってしまえば、辺りに聞こえるのは葉ずれの音や二人の足音、バケツに溜めた水や突っ込んだ柄杓の音くらいのものだった。
二人は墓地の奥にある、濃い色の御影石の墓石の前に立った。
「花、萎れちゃったね……真人は墓石を拭いてちょうだい。私、花を替えるわ」
「拭く必要、なくないか? 一ヶ月前に来たばかりだろ」
「でも雪が積もってるじゃない。真人、いいから拭いてちょうだい!」
面倒だし、とは言わず遠回しに仕事を回避しようとした真人だったが、深雪はびしりと指を突きつけ命令してくる。反論すると後が面倒なので、真人は大人しく従うことにした。
五十年の劣悪な環境に耐え抜いた深雪は、新しい身体で起動してからも以前とまったく変わらず、気まぐれでわがままなままだ。記憶や感情回路が別物になっているかもしれないという、真人の心配はまったくの杞憂だった。前の身体と変わらない、と少しだけ文句を言う姿に脱力したのは忘れようのない記憶である。
深雪が萎れた花を新しいものに取り換えている間に、真人は往時のなめらかさを失った長方形の石を綺麗な雑巾で軽く水拭きした。古びた石に刻まれた少し古い字と真新しい字に、雑巾から水滴が滴り落ちていく。
一ヶ月前、
葬儀は真人と深雪を含めた近しい者だけで執り行われ、遺骨は西村博士が先に眠る、西村家の墓に埋葬された。そうしてくれと、彰彦は遺言を残していたのだ。博士も彰彦もこの地域で幼少期を過ごしたのだという。研究の成果が見えてきたのを機に役職を辞し、長くアンドロイドに管理を任せたままだった実家に戻り、余生を過ごしている間にも、故郷に墓を埋めたいから戻って来たのだと笑っていたものだった。
墓を清めながら、真人は深雪に問いかけた。家からここへ来るまでに、旅行の話をしていたのだ。
「で、お前、ほんとに京都へ行くつもりなのかよ」
「当然じゃない。そりゃこの町にも古い家は残ってるけど、京都なら今でも昔のお寺とか神社とか、町家がたくさん残ってるんでしょう? 短歌の舞台になったところもあるっていうし。あ、奈良にも行ってみたい」
「前時代の小学生の修学旅行かよ」
思わず真人が突っ込むと、うるさい、と深雪は睨みつけてきた。
「だって私、一回しか行ったことないもん。清水寺と上賀茂神社と金閣寺には行ったけど、他のところも行ってみたいな」
「……そうかよ」
真人は呆れたが、口には出さない。理由は先ほどと同じだ。女に口で勝てると思うな、と西村博士と彰彦からも教わっている。大人しくしておくのが一番だ。
それに、こうして自然と彰彦との思い出のことを口にして、楽しそうにするのはいいことだ。彰彦が死んだ後、深雪は葬式の場こそ気丈に振る舞っていたものの、半月は塞ぎがちだった。自然体でいられるようになったのは、ほんの三日前のこと。以前と同じ調子は時々呆れるしいらっとするが、あんなふうに空元気を振りまいた後、影でこっそり泣かれるようはずっといい。
そんな真人の安堵を知らず、深雪は花瓶の水や花を入れ替える手は止めないものの、まだ旅行先を妄想している。よほど旅行したいらしい。
真人は生温い目を向けた。
「深雪、どこへ行ってもいいけど、金のことはちゃんと気にしろよ? 俺たちは大して貯金ないんだし。家を売るわけにはいかないんだから、豪遊なんてできないぞ」
「わかってるわよ。無駄遣いなんてしないし。旅先でお金稼げばいい話でしょ?」
「そりゃそうだけど、お前、京都だの奈良だのにゃほとんど人間が住んでないだろうが。いつか旅に出るにしても、とりあえず今はここで地道に働いて、金稼いだ方がいいと思うけど」
頬を膨らませる深雪に、そう真人は真面目な顔で忠告してやった。
赤紋病によって人間の姿が消えたこの町では、事情あって所有者を失くしたアンドロイドが身を寄せあって暮らしている。西村博士ら日本人研究者の活躍によって赤紋病が不治の病でなくなり、人口が少しずつ増加しつつある世界であるが、まだまだ人間に捨てられたまま、政府の目が行き届かない町は多いのだ。そのためか政府も、秩序が保たれた一つの町として機能している以上害はないと判断できるアンドロイドの町については、無理に追い出すようなことはせず黙認していた。
「どうしても行くって言うなら、今回は高野山で我慢しろよ。今年は高野山経由で、熊野古道の動植物への注入作業やるし。高野山の上のほうは五月くらいに桜が咲くって話だし、上手くすれば、作業の行きか帰りに見られるかもな」
「真人、なんか偉そう。むかつく」
「事実だろうが。偉そうにした覚えもねえし」
乾いた雑巾で墓石を拭き終えた真人は、そろそろ癇癪を起こしそうな顔になった深雪にそう、ため息をついて返した。
人間に対する赤紋病の治療薬が開発されて二十年足らずの間に、動植物に対する治療薬も相次いで開発され、世界規模で動植物への注入が行われた。日本でも人間の管理下にあるアンドロイドを総動員しての注入事業が開始され、都市部での注入が完了してからは、大自然の再生を目指して現在も事業は引き続き行われている。
かつては僧侶と観光の町であった高野山も、今や朽ちた寺院と町、墓石が飾り、数人の物好きな僧侶がひっそりと暮らすだけだ。真人は去年の春に訪れたのだが、そこに咲き誇る赤い斑点の桜は、吉野で見たものよりも不気味だった。
そんな高野山の木々に真人がこの町のアンドロイドたちと共に治療薬を注入してから、数年が経った。あの山の桜はどうなっているのだろう。きっとこの寺の若木のように、赤い斑点のない花を咲かせているはずだが、真人は気になった。そう考えると、今から確かめに行くのは悪くない話かもしれない。
花瓶の水と花の入れ替えも終わり、しゃがんでいた深雪が立ち上がった。それを見て、真人は廃れそうで未だに使われている線香に、これまた一部の懐古主義者に人気のマッチで火を点ける。
独特の匂いがほのかに漂い、細い煙が澄みきった青空へと消えていく。
真人と深雪は手を合わせ瞑目し、自分たちの良き庇護者だった親子に祈りを捧げた。彼らとの研究所やこの片田舎での日々、二人の穏やかな最期を追想する。
沈黙の後、目を開けた真人は深雪に身体を向けた。
「……じゃ、行くか」
「うん」
頷きあい、真人は水がなくなったバケツを持って歩きだす。深雪はその後をついていく。
「ねえ真人、いつかまた、吉野にも行こうね」
「そうだな。でもまだあっちのほうは、注入作業やってないだろ。綺麗な桜が見たいんじゃなかったのか?」
「そうよ。だから冬に行って、雪で遊んでから帰るの。注入作業が終わってから、春の桜を見に行くわ」
真人がからかうように言えば、深雪はすました顔で返してくる。どうやらまだ、吉野の美しい桜を見たいという願望は消えていないらしい。優秀な記憶媒体のおかげだろうか。
所有者のいないアンドロイドたちが注入作業に率先して従事したこともあって、荒木たちアンドロイドの人権向上を目指す団体の努力は十五年ほど前に実った。今やアンドロイドは所有者がいなくても廃棄処分されず、それどころか、居住する自治体からIDカードをもらいさえすれば、法の保護を受けながら自由に生活ができるのだ。
赤紋病も治療可能なものとなり、大自然は少しずつ再生し始め、数を減らしていた動物たちは増え、絶滅していた種もいくらか復活した。人間とアンドロイドは相変わらず対等ではないが、話し合いを重ねて歩み寄ろうとしている。もしかしたら、人間とアンドロイドのカップルという夢物語も、いつかは法的に認められる日が来るのかもしれない。
世界と人間社会は、ゆっくりとではあるが良い方向へ向かおうとしている。破滅の音は遠のいたと安堵する人間とアンドロイドの安堵の声は、年々大きくなるばかりだ。
だから見てきなさい、と吉村博士と彰彦は今わの際、真人と深雪に言った。自分たちが救った世界の美しさも醜さも、全身で感じてきなさいと。
だから二人は旅に出る。熊野や吉野は、その手始めだ。それから京都、奈良。その次は、二人で話し合って決めればいい。家の管理は近所のアンドロイドに任せればいいし、たまに墓参りをしに帰省すればいいだろう。
行きたいところすべてを見に行く時間は、いくらでもある。何しろ二人はアンドロイド。メンテナンスを怠らなければ、百年でも二百年でももつのだ。世界の変化を見守りながら、呑気に旅をするのも悪くはない。
大丈夫。二人なら、どこへでも行ける。
真人は青空を見上げた。世界が変わりゆく中、青空だけは、過去の世界で真人が見たものとまったく変わらない色をしていた。
桜が咲く頃に 星 霄華 @seisyouka
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