第3話 託された願い

 研究所内でもっとも日当たりがいい部屋の扉を叩くと、すぐ老人の声が真人まひと深雪みゆきの入室を許可する。出入りし慣れている二人は特に緊張することもなく、気楽に足を踏み入れた。


 執務机に本棚、来客用のソファにテーブル。ポットやコップを乗せたカップボード。壁紙も調度も、素材や見た目は『ぬくもりがある』と人間に好評の木材ではないが、冷たさや素っ気なさは感じられない。部屋の主がまとう空気を吸い込んだかのような、落ち着きのある空間である。


 所長室。研究所の設立者であり、所長であり、真人の所有者である西村博士を主としている部屋だ。

 執務机の傍らに立つ男を認識するや、深雪の眼球センサーが輝いた。


彰彦あきひこっ」


 名を呼ぶや、深雪は彼に抱きつく。いくら少女型といえど所詮はアンドロイド、似た背格好の人間の少女よりは重いのに。――――そんなことを言えば後で徹底的に報復されるので、真人は絶対に言わないが。

 灰色のスーツに身を包んだ、四十代のすらりとした体格の男――西村彰彦は、少々よろけはするものの深雪を抱きとめると相好を崩した。


「やあ深雪、元気そうだな」

「ええ、もちろん元気よ。彰彦も思ったより元気そうで良かった。前に来たときは、頬が痩せていたもの。隈もできていたし……」

「ははは、あのときが一番忙しかったからね。でも山場は脱したから、ちょっと抜けてきたんだよ。今も山場と言えば山場だが……まあ、身体には気をつけているよ。心配してくれてありがとう」


 と、彰彦は深雪の頭を撫でる。いつもの甘やかしに、深雪は頬を赤く染め、嬉しそうに彰彦の手を甘受した。椅子に座っている白衣姿の老人――研究所の所長である西村博士も、普段の気の強さはどこへやらな小娘の様子に、くすくす笑っている。


 なんとも和やかな光景である。だが真人は何故か、思考回路にかすかなノイズが混じるのを認識した。不快だ、と感情回路が結論を出す。

 これだから、深雪と一緒にいるのは嫌なのだ。普段は何ともないのに、時々OSの調子がおかしくなる。それはとてもささやかな変化で思考を狂わせるほどではないが、落ち着かない。


「……で、博士。用はなんですか」


 居心地の悪さから目を逸らすように、真人は来客用のソファに腰を下ろして用件を問うことにした。それで西村博士はおおそうだな、と頷き、深雪と彰彦にも着席を促す。もちろん、深雪は彰彦の隣だ。

 どうやら、単なる雑用ではないらしい。彰彦が退室しないのを見て、真人は推測した。


 彰彦は西村博士の息子であることもあってか、政府機関とこの研究所の連絡役を一任され、多忙だ。その彰彦がわざわざ同席するのである。具体的な内容はわからないが、政府が事情に絡んだ用事なのかもしれないと、真人は推測した。

 西村博士は視線をさまよわせてから、口を開いた。


「……赤紋病の治療法が見つかりそうなのだ」

「!」


 告げられた一言に、真人と深雪は目を見開いた。


 赤紋病の進化はすさまじく、猛威は今や動植物にまで広がり、数多くの種が絶滅し、もしくはその危機にさらされている。前時代には数が多すぎて害獣扱いだった犬や猫、猿でさえ、今や保護されるべき対象だ。赤紋病に屈することなく元気に生き延びているのは、昆虫類の一部くらいのものだろう。


 人間はこの病気に加え、動植物の絶滅による食糧難と、それを原因とした戦乱によって自滅の危機を強めている真っ最中だ。技術によってどうにか乗り切ろうとしているが、いつまでできることか。そうした政治や技術面の不安に加え、アンドロイドの地位向上の動きも絡めると、未来は暗いとしか言いようがない。


 このままではいずれ、動植物ばかりか人類も滅んでしまう。そうなる前に地球上のあらゆる生命を生かすため、赤紋病をこの世から根絶する。それが人類の悲願であり、この西村研究所の職員一同の願いでもあるのだった。

 その悲願の成就の予告を聞いて、深雪は声を弾ませ、隣にいる彰彦を見上げた。


「じゃあ、彰彦たちがいつ発病するかわからないということは、もうなくなるのね?」

「ああ。……でもそのために、君たちにやってもらいたいことがあるんだ」


 彰彦はどこか悔いているような、申し訳なさそうな表情で言う。本当はさせたくない、けれど、と葛藤する人間の顔だ。


「……何をすればいいんですか」

「……五十年前に飛んでもらいたい」

「! でもタイムリープは」


 国際条約で禁止されているはずです。真人は思わず反論の声を上げた。


 過去を改変すれば、確かに人類は過ちを正すことができる。だがそれは、その時代を懸命に生きる人々の生死を変えること。ひいては、彼らの子孫である現代の人々の生死を変えることにも直結する。過去の戦争をなくせば、その後の世界に存在しているあらゆる生命のみならず、彼らが生み出したものが失われてしまうのだ。


 あるいは、過去が改変された瞬間から並行世界へ移行して、この時間軸にまったく影響がないかもしれない。世界が過去改変を瞬時に修正するという形で現在に影響がない場合も、理論上はありうる。


 だがどんな結果になるにせよ、タイムリープを誰も試したことはないし、現在に与える影響が大きすぎるか皆無しかない。だから人類は自分たちの存在を守るため、国際条約でタイムリープを禁じた。違反すれば、重い刑罰を受けなければならない。

 西村博士は、もちろんそれを知っているはずだ。だからだろう、頷くことで真人を制止した。


「ああ。だから、これから私が話すことは誰にも話してはならない。わかるな?」

「……はい、わかりました」


 強い意志を感じさせる声に、真人は首肯する。深雪もどこか不安そうな顔ではあるが、頷いた。

 そうしてやっと、吉村博士は理由を語り始めた。


「赤紋病の特徴は、名の通り赤い斑点が皮膚に浮かびあがり、激しい痛みと幻覚症状に襲われること。致死率が七割であること。飛沫の他、接触や空気、虫によっても感染すること」

「仮に生き延びたとしても、DNAが改変され、遺伝すること……もよね」


 と、深雪は彰彦にすり寄る。彰彦はああ、と頷いた。

 つまり、と西村博士は続ける。


「赤紋病に汚染されていないDNAの正確なデータがあれば、改変の前後を比較することで、どこの部分にどのような影響を及ぼすのかを特定し、今までの研究データと合わせて、治療薬を作る糸口になるかもしれないのだ。サンプルを培養し、身体に直接注入することでも効くかもしれない。もちろん、科学技術を使って、滅んだ動植物を復活させることも可能だろう」

「けど、DNAデータの比較はもうやってるんじゃなかったんですか? 俺、比較してるのを見ましたけど」

「いや、今の人類では私たち健常者でも、どこかしらが赤紋病に侵されている可能性がある。発症していないだけでな。それに、人間以外の動植物のデータが少なすぎる。人間だけを救うのでは駄目なのだ。少しでも多くの動植物を救わなければ」

「だからタイムリープして、赤紋病が確認される前の世界で、人間や動植物のDNAサンプルを採取しろってこと?」


 真人がそう眉をひそめて問いを重ねると、西村博士は重々しく頷く。それはそのまま、真人と深雪に課そうとしている役目の重大さを表しているようでもあった。


「十年以上前には、すでに私たちの頭の中にこの案はあったのだ。だが当時の私たちでは、肝心のタイムマシンを造るだけの技術力や資金がなかった。条約を破ることになるしな。最近になって、民間でアンドロイドを修理している者たちが集まってタイムマシンを建造中だと風の噂で聞くまでは、諦めていたよ」

「…………でも、吉村博士。なんで貴方が、俺たちにそれほど重大な任務を命じるんですか? もちろん従いますけど、でも、そういうのは政府が軍の特殊部隊に命じるものじゃないですか?」


 補足を黙って聞いていた真人はしばらく黙った後、そう吉村博士に疑問をぶつけた。


 どう聞いても、研究所で雑用をこなしているだけのアンドロイドがするような頼みごとではない。日本軍には他国も唸る優秀なアンドロイド兵が揃っていて、科学班もある。他国に知られないよう、痕跡を残さず行動するのも得意分野のはず。自分たちなどより、よほど任務に相応しい。

 真人の疑問に答えてくれたのは、彰彦だった。


「いや、真人。実は、この計画のことを政府は知らないんだよ」

「……は?」


 苦笑交じりの回答に、真人は本日二度目の間抜け顔をさらすはめになった。

 彰彦は言う。


「当然だろう? タイムリープしてあらゆる動植物と人間のDNAサンプルを採集してきます、過去の改変は一切しませんから、と閣僚や軍部に提案して、あの頭が固くて責任をとりたがらない連中が了承するわけないじゃないか。どうせ、他の国に知られたらどうするだの、失敗したらどうするだの言って許可しないさ」

「……」


 それは、そうかもしれない。真人は納得した。

 ニュースで見る限り、日本はけして安穏としていい状況にない。もうお互いに人口が激減しているというのに、近隣の数ヶ国との間で、領土や漁業、その他のことでも未だに対立しているのだ。各国の人間のいがみあいが、アンドロイドにも影響しているのか。面子だの野望だの過去の因縁だの、真人からすれば馬鹿馬鹿しいとしか思えないのだが、争いたがる輩はどんなときでもいるものらしい。


 そんなときに、政府直轄の研究所が時間に干渉するなかれ、という条約に違反したと知られようものなら、他国に付け入る隙を与えることになってしまう。いくら人類のためといえど、閣僚たちは二の足を踏むだろう。


 しかし、だからといって治療法発見の糸口を見逃すことは、二人にはできない。彼らの伴侶が赤紋病で死んでいることを、真人は知っている。だから彼らは今の地位に就き、それぞれの立場から赤紋病に立ち向かおうとしていることも。ようやく訪れた好機を国際条約や政治問題に阻まれてたまるものか、と強く思っていることも、真人には察せられた。


「私、やるわ」


 深雪は言った。


「DNAデータをこの時代に持ち帰れば、彰彦や吉村博士、他の職員の人たちがいつ赤紋病で死ぬかわからないって、怖がらなくていいんでしょう? だったら私、やるわ」


 意志を繰り返し口にした深雪の表情は、彰彦のそばにいる喜びなど忘れ、強い決意に満ちていた。きっと彼女のOSの優先事項の順位は今、ものすごい勢いで書き換えられているに違いない。彼に拾われ所有されているという以上に、彼女は彰彦を慕っているのだ。

 彰彦は悲しそうに、申し訳なさそうに笑った。


「……すまないな、深雪。本来なら人間がするべきことをさせてしまって」

「いいの。私、彰彦のためになることはなんでもしたいの。だから、こっちに帰って来たらご褒美が欲しいわ」

「ああ、わかった」


 深雪の上目遣いのおねだりに、仕方ないなあと彰彦の笑みが柔らかなものになった。それにこそ深雪は喜び、彰彦の腕に抱きつく。


 隣から漂う空気に額を抑えたくなった真人は、向かいのソファに座る所有者を見た。

 白く薄い頭髪に白い肌、白衣とスーツで包んだ、締まった身体。日夜、赤紋病の研究に取り組む四肢はきびきびとよく動いて、七十になったばかりとはとても思えない。


 それでも、人類の希望となるには脆弱だ。息子の彰彦と分かち合っても、まだ重いはず。もっと荷を分け合える者が必要だ。


「わかりました。俺も行きます。他ならぬ西村博士の頼みですし、深雪だけだと心配ですから」

「なによ、えらそーに。ついて来てもいいけど、足手まといにならないでよね」


 彰彦越しに真人を睨んだ深雪は、べえ、と舌を突き出す。真人はいらっとして睨み返したが、すでにそっぽを向いている。彰彦はたしなめもせず、仲が良いねえと呑気に微笑むばかりだ。

 西村博士の目に、涙が浮かんだ。


「すまないな、真人、深雪。人類を救ってくれ」

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