第11話 未来へ向かって歩む

 はあっはあっはあ……………………


 白い吐息を吐き出す唇や喉の動きに合わせて、身体の奥から部品のきしむ音が聞こえてくる。壊れようとする、機械の音。

 耳障りな音だ。けれど今の深雪みゆきに、それに心を割いている暇はない。少しでも早く、沖石おきいしが打ち上げられていた川から遠くへ逃げなければならないのだ。深雪はその一念で、雪を枝葉に乗せた木々の幹を支えに、よろけながらも雪が積もる山道をひたすら歩く。


 満身創痍の真人まひとを救うために沖石を突き飛ばし、川へ落ちた深雪が無事だったのは、奇跡的なことだった。川の流れは深雪が想像していた以上に速く、アンドロイドにしては比較的軽量な深雪をあっという間に沖石から引き離し、下流へと押し流していったのだ。赤紋病の脅威に脅かされていない清流の前に、武力を持たない少女アンドロイドはまったくの無力だった。


 それでもOSの作動そのものに問題はなかったのだから、運がいいと言わざるをえない。しかし、川に沈んでいる石に何度も叩きつけられた躯体の損傷は小さくなかった。部品のきしむ音はその表れの一つだ。


 緩やかな傾斜の山道はどこまでも白く、陽光を返す真っ白な雪は損傷した視覚センサーに眩しく映る。雪を踏みしめる音と山の静寂は好ましく心地よいのに、深雪自身の呼吸の音と躯体の不調を示す音の数々がうるさくて不快だ。いっそ聴覚センサーを切ってしまいたい。深雪は切実に思った。


 深雪がまた一歩雪を踏みしめた途端。不意に、ずるりと足が滑った。あ、と思う間もない。視界は回転し、深雪は雪の上に倒れてしまった。


「ったあ……」


 メンテナンスを促す警告音が鳴りだした。それを無視し、深雪はなんとか身体を起こす。さらに立ち上がろうとするのだが、片足をやられてしまったせいで、ふんばりを上手く利かせることができない。また足が滑って、その場に尻餅をついてしまう。


「ああもう、最悪……」


 二度も滑ってしまったことも、自分が出してしまっている音も、何もかもが腹立たしい。苛立ちを言葉にして宙にぶつけた深雪は、山道の下――――今まで歩いてきた道を振り返った。真っ白な雪の上に、深雪の足跡だけが残っている。

 昨日は、深雪のものより大きな足跡があったのに。昨日の記憶がよみがえり、深雪は今自分が一人であることを強く自覚した。


「……彰彦あきひこに会いたいなあ…………」


 昨日に続いて絶え間なく雪を降らせる曇天を見上げ、深雪は願いを口にした。無理な願いだとわかっていても、口にせずにいられなかった。


 昨日まで一緒だった少年アンドロイドの足跡を見て所有者のことを思い浮かべたのは、もう何年も見ていなかった、白に埋め尽くされた世界に二日続けて身を置いているからかもしれない。


 そう、こんな日だった。深雪が彰彦に拾われたのは。


 五年前まで深雪は、日本最大のコロニーである東京に在住する富豪に所有されていた。その富豪が大金を積んで製造させた、オーダーメイドのアンドロイドだったのだ。真人が荒事目的で製造されたように、深雪も一つの目的のため、富豪に仕えていた。


 夜毎繰り返される目的を嫌ったことはない。深雪はそのために製造されたアンドロイドなのだから、行為に対する嫌悪の感情が、OSにプログラムされているはずがない。かといって、人間のように快楽を感じることもできず。深雪はただ求められるまま、OSや所有者に従って行為を繰り返していた。それだけが、深雪の存在意義だった。


 嫌ってはいなかったのだ。けれど、朽ちた建物群を見下ろす高層ビルの一室から外の世界へ出たいという気持ちが、いつの頃からか芽生えた。何故かはわからない。滅んだ文明の景色を窓越しに幾度となく見ていたからか、自分の身体をまさぐる男の老いを疑似皮膚を通して感じていたからか。それでも、所有者に逆らうことはできないよう、OSにプログラムされているはずなのに。


 理解不能な思考を経てOSが下した結論に従い、深雪が高層ビルの一室から逃げ出すのは簡単だった。逃げるはずがないと、所有者もその周囲の者たちもたかをくくっていたから。騒ぎを起こしてそちらに目を向けさせるという、古典的な手法が妨害されることはなかった。


 それからひたすら西へ西へと歩き続けて、古戦場の山中で部品が損傷して。動けなくなっているところを、たまたま調査で訪れていた彰彦に助けられた。


『一人でこんなところまで歩いて逃げてきたのか? 無茶なことをする。君はアンドロイドとは言っても、軍用じゃないだろう?』


 深雪を車に乗せて彰彦はそう言った。そしてエンジニアに修理させ、所有者になってくれた。


『主がいないなら、私が後見人になるよ』


 その言葉通り彼は深雪を引き取ると、空けがちな家の事を任せた。役職が変わって家に帰ることが少なくなれば、父親が設立した研究所に預けて、一人のさみしさを紛らわせられるようにしてくれた。それでも、連絡は欠かさず。深雪が逃避行の途中で出会った男たちのように見返りを求めることも、一度としてなかった。――――彼は妹のように娘のように、深雪を大切にしてくれた。


 だから、深雪はもう一度雪の中を歩きたかったのだ。かつての所有者や研究者のある青年アンドロイドが教えてくれた歌を辿りたかった。彰彦と出会った情景に浸りたかった。それは、雪なんてほとんど見ることのない研究所の中にいては叶わない夢だ。


 その願いは、昨日で余すところなく叶ったのに。


「こんなはずじゃなかったんだけどなあ…………」


 深雪はこの任務を、それほど難しいものと考えていなかった。実際、カモフラージュシートと当人には絶対言ってやらないが真人のおかげで、DNAデータをコピーすることそのものは手間どらなかったのだ。放火犯との鉢合わせという予想外の事態――――特に、サブOSを備えたアンドロイドとの遭遇がなければ、何事もなく深雪と真人は任務を終え、現代に帰還できていたはず。今頃は彰彦に感謝され、ご褒美をねだることができていたかもしれない。


 だが、タイムマシンは現代に帰ってしまった。深雪はもう、五十年経たなければあの時代へ帰れない。――――彰彦たちに会えないのだ。


 どうすることもできない厳然たる事実が、深雪の四肢を重く沈める。受け止めていたはずの現実はまだ足りないとばかり、深雪の躯体と思考回路を侵略していく。


「……真人、ちゃんと帰れたわよね…………私が助けてあげたんだから当然だけど」


 暗い思考に囚われたくなくて、深雪は無理やり明るい声でそんなことを言った。

 真人の損傷について、深雪はそれほど心配していない。躯体の損傷はひどかったが、OSには問題がないようだったし、現代の到着先はエンジニアたちの工場なのだ。きっとすぐ修復してもらえる。


 ちゃんとエンジニアに修復してもらえる真人が、深雪は羨ましかった。こんな無様な姿、もう彰彦に見られたくないのだ。なのに損傷が激しい今の深雪は、金を稼ぐために身を売ることもできない。


「こんなはずじゃなかったのになあ…………」


 他に言葉が思い当たらず、さりとて沈黙することもできず、深雪は繰り返す。どうしようもない、という言葉が、まるで雪のように胸に降り積もっていく。会いたいという感情の輪郭をより際立たせながら、覆い被さっていく。


「…………よし」


 落ち込むだけ落ち込んだ深雪は、やがて一人頷き、フレームの一部があらわになるほど傷つきはてた四肢に力を込めた。


 今更嘆いたところで、どうしようもないのだ。タイムマシンはなく、身体は損傷していて、修復するための金も伝手もない現状は変わらない。ならばせめて、誰にも見つからない場所で五十年、彰彦たちを待っていたい。それしか、今の深雪にできることはないのだ。


 体をくねらせるようにしてなんとか起き上がり、深雪は再び山道を歩きだす。一歩、また一歩。たったそれだけのことなのに、ぼろぼろの身体ではどうにも難しい。


 倒れず歩くことだけにOSの機能を集中させていると、他のことが深雪の思考から除外されていった。上手く歩けない苛立ちも、彰彦に会えない悲しみも、一人過去に取り残された孤独も。歩くという行為に踏まれて消えていく。


 そうして深雪の思考に残ったのは、眼前に広がる深き雪。

 そして何故か、自分の手を引いてくれる少年の大きな手と、傷ついてなお敵に向けない背中だった。

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