第5話 歌う少女の願い

 午後三時過ぎになり、真人まひと深雪みゆきを迎えに行くことにした。


 情報端末は使わず、雪の上に残された深雪の足跡を辿っていく。はっきり残っているし、他に足跡は獣のものさえ一つもないので追いやすい。道も凍結しておらずそれほど歩きにくくはないので、苦労はなかった。


 歩くごとに、靴の下で雪が踏み固められる音がする。あるいは、薄氷を踏み抜くかすかな感触。間近で見る雪は純白であるようにも、青みを帯びているようにも見える。


 初めて聞く類の音や景色は、真人の感情をほんの少しばかり高ぶらせた。なんというか、不思議で、面白い。特に音が面白い。わざとその場で何度も踏みたい衝動が生まれる。

 それでも真人がやらないのは、先を行く足跡に、明らかに衝動を実行した形跡が見られるからだ。凍っている地面を見つけ、わざわざ踏みに行ったのも、足跡を見れば明白である。


「……犬か、あいつ」


 檻から解き放たれた犬のように駆け回る少女の様子が、真人にはありありと想像できる。雪景色の中はしゃぎまわっているさまを第三者が見たらこんなふうに見えるのかと思うと、冷静になれた。


 平坦な道は道なき道に変容し、急な斜面が続く。さすがに真人も少しきついなあと思いながら山を登っていると、やがて道の途中に深雪の姿を見つけた。


 深雪は、木立が途切れ、視界が開けたそこに突っ立っていた。何を見つめているのかは、真人がいる一からはわからない。けれど周囲に続いているのは、真っ白な山の景色ばかりなのである。一体何を熱心に見つめているのだろうか。


 そんなことを考えて向かいの山の景色を見ながら深雪のほうへ歩き、声をかけようとした真人は、改めて深雪の横顔を視界に入れた途端、言葉が出なくなった。


 純白の山景に混じることのない白貌は、いくつもの感情をかすかににじませて山を見つめていた。どれほどの時間そのままだったのか、木の枝から落ちてきたのだろう雪片が黒髪を飾っている。

 銀世界に馴染んだ、静かな表情。気まぐれでいい加減な少女の面影はどこにもない。


 そしてよく見れば、深雪は口を動かしていた。何か歌っている、もしくは詩を朗読しているようだ。が、声は聞こえないし、真人は読唇術を習得していないので、何の歌か詩なのかわからない。


 声をかけなければ、と冷静な思考が促すのに、真人は身体を動かせなかった。心の琴線に触れる芸術品を見た人間になったかのようだ。思考ばかりが空転する。


 彼女は彫像ではない。少女アンドロイドだ。それは、自分がよく知っているはずだろう。真人はそう、自分に言い聞かせた。思考を断ち切るように、早鐘を打つ疑似心臓を鎮めるように深呼吸をする。


「深雪」


 ある程度近づいてから真人が呼びかけると、ぼんやりしていた深雪はようやく真人に気づき、顔を向けた。黒髪から雪片の飾りが落ち、先ほどまでの表情にいつもの色がほんのりと混じる。そのことに真人は安堵し、同時に残念にも思った。


「あ、真人。来たんだ」

「来たんだ、じゃねえよ。そろそろ下りないと、日が暮れはじめるぞ」


 と、真人はさらに石段を上って深雪に近づく。


「そんなに焦らなくても、まだ時間はあるわよ」

「とか言って遅れたら、洒落になんねえだろ。山は暮れるのが早いんだし。ほら、行くぞ」

「……わかったわよ」


 渋々といったふうに息をつき、深雪は立ち上がった。落ちきらない雪を肩や髪から払い落す。

 二人で山道を歩きながら、真人は深雪に尋ねた。


「お前、こんなところで何してたんだ? 向かいの山に、何か面白いものでも見えたのかよ」

「まさか。川と雪山が見えるだけよ。昔の人間は、何考えながらここを歩いてたのかなって考えてただけ」


 と、深雪が肩をすくめるものだから、真人はますますわけがわからなくなった。散歩すると言って勝手に山を登って、次ははるか昔の人間の価値観について考えるなんて。思考に一貫性がない。


 かれこれ二年ほどの付き合いになるが、真人がこの少女アンドロイドの思考を理解したことは一度もない。すぐ怒るし、気分がころっと変わるし、深く考えているのかと思えば何も考えていなかったりする。十代の少女はそんなものだ、と彰彦に笑われたのは一年半前のことだ。


 深雪の思考と感性を真人が理解できる日は、きっとこれからもないのだろう。振り回されるだけで。――――自分は、彰彦あきひこではないのだから。

 生まれた思考のノイズを無視し、真人は適当に話を合わせることにした。


「お前がそんな、詩人か何かみたいなこと考えるとはな。らしくねえの。どっかの回路がショートでもしたのか?」

「もうっすぐそんなこと言うから真人はやなのよっ」


 深雪は眉を吊り上げ、ぷいとそっぽを向いた。どうやら、一応は真面目に古代の人間について考えていたらしい。

 少し、からかい過ぎただろうか。深雪は短気で怒りっぽいからあまりからかわないほうがいいのだが、つい忘れてしまっていた。

 こういうとき、さっさとフォローしておかないと、後でちくちくと嫌味を言われるのだ。それは御免被りたい。


「……まあ、こんなところを機械も俺たちみたいなアンドロイドもないんだから、自分で荷物持って歩いてたんだから、しんどかったんじゃねえの? んで、春だったら、桜が綺麗だなって思ったんじゃないのか? ここ、昔から桜の名所みたいだし」


 最初からこう言えばよかったのだと後悔しつつ、真人は言った。


 真人は日本の歴史についてあまり知識がないが、大昔から桜が好まれていたことくらいは知っている。風に揺られあっさりと散るさまはしばしば人生に例えられ、特に侍と呼ばれる戦士たちに好まれたらしい。命を桜に例えて死んだ侍の妻もいると、聞いたことがある。


 そういう生きざまの価値観に照らさなくても、山の色が明るいものになるのは好ましいものだ。ましてや山の全域で、桜が次々と咲き誇るのである。だからこそこの山は古い時代から日本人に好まれ、現代の戦争の時代を迎えるまで有名だったのだと、真人が読んだ日本の地理の本に書いてあった。


 もっとも、赤紋病に色を狂わされた今となっては、飛び散りあるいは滴る血のようだと人間たちに忌まれることも少なくないのだが。そんな桜の下で花見をする、西村研究所の研究者たちは変人揃いなのである。


 横目で真人をねめつけていた深雪だったが、真人の話を聞いているうちに機嫌は直ってきたのか、表情がいつものものになった。


「そういえば、春になったらこの山でも桜が咲くのよね。記録映像でしか見たことないけど」

「俺も山の桜は見たことないな。雪がこんなに積もってるのも初めてだ」


 そんな他愛もないことを話しながら歩いていると、深雪は不意に足を止めた。真人が隣を見てみると、深雪はまた先ほどの大人びた表情で、山々を見つめている。そこに何か別のものを見ているかのように、憧れているものがあるかのように。


「……見てみたいな、桜が咲いてるの」

「研究所の敷地内にもあるだろ、桜は」

「違うの。汚染されてない桜が、山でたくさん咲いてるのを見たいのよ。だって私、研究所か記録映像でしか、汚染されてない桜を見たことないもの」

「……んじゃ、帰ったらそれを彰彦にねだればいいんじゃね? いつか、春の山に連れて行ってくれってさ。俺たちがDNAデータを持ち帰れば、西村博士たちが治療薬の研究を始めるわけだし。ま、あの人はかなり忙しいから、時間とれるかわかんないけど」


 それに、そのとき生きてるかわかんないけど。喉から出そうになった不吉な言葉を、真人は複雑な思いごと飲み込んだ。


 これまでの研究データの量は相当なものであるし、この任務で得られるDNAデータは膨大かつ有用だ。研究資料として現代に持ち帰れば、赤紋病の研究は一気に進むだろう。日本政府も、研究予算を惜しむまい。


 だが、それでも治療薬を創るのは簡単なことではないはずだ。先に西村博士たちの寿命が尽きても、おかしくない。そんなこと、深雪に言っていいわけがないし、真人も言いたくもなかった。


 深雪もそれ以上話題を続けず、言われなくてもわかってるわよ、と澄まし顔で言って歩きだす。真人も黙って歩くのを再開した。

 いや、しようとした。


「っ?」


 妙な音と、少し遅れて歩きだした深雪の息の音がしたかと思うと、真人の腕に柔らかな感触がぶつかった。服の袖が引っ張られるというより、握りしめられる。

 深雪に抱きつかれたのだと理解した途端、真人という思考は一瞬真っ白になった。とるべき行動を弾きだすことも忘れ、息を詰める。


 その硬直が一瞬で解けたのは、さいわいとしか言いようがなかった。ゆっくりと振り返る。


「……何やってるんだよ、深雪」

「う、うるさいわね」


 頬を赤らめ、深雪は真人から離れた。恥ずかしさから逃げるように、すたすたと真人を置いて先へ行ってしまう。足元の石段が割れているのに気づかず踏み出し、バランスを崩してしまうという間抜けをさらしたのだ。真人でも深雪にからかわれるのが嫌だから、逃げる。


 やっぱり違うな、と真人は改めて思った。


 真人も深雪も同じオーダーメイドのアンドロイドだが、元の所有者の使用目的が違うため、外見以外のあらゆる面が違う。深雪がさっき見せた、頬を赤らめる仕様はその一つだ。人間と接することを目的に製造されたという話だから、人間の感情とその身体的な表現を、細かなところまで再現できるようになっている。感情はあれど、それを表現する仕様はあまり高精度のものが搭載されなかった真人とは大違いだ。


 その違いが、今の真人にはありがたかった。


「真人! 早く来なさいよ! 早くしろって言ったのは真人でしょ!」


 数歩先から、深雪が真人に怒鳴る。誰かが聞いているかもしれないのに、まるで気にもしていない。

 また怒鳴られてはかなわないと、真人は少し早足で追いつく。彼女との間にできた距離がたちまち縮まっていくことに対する感情は、あえて認識しないようにした。

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