第2話 ある山奥にて
あらゆる感覚、とりわけ時間に関するプログラムの不具合が広がりかけたところで、一際強い衝撃が下から
「
真人は面舵を握っていた手を放し、小舟の後部に座っていた深雪を振り返った。
二人の周囲は見渡す限り、真冬の真っ白な山が広がっていた。山景を二つに分かつ川の下流――深雪の背後には、長い塀に囲まれいくつもの建物を有した立派な寺院が、速い流れの川を望んで建っている。
見える限りでは他に集落はなく、建物はその寺院と、山上に見える廃寺だろう寺院だけだ。真人や深雪が記録映像や写真でしか見たことのない、古き良き日本の冬の山景そのものだった。
が、深雪は真冬の山中の風景に興味を向けていられる状況ではなかったようだ。小舟の縁にもたれてぐったりしていた。
「うう、なんか感覚が変……気持ち悪い」
「時間感覚と方向感覚のプログラムが狂ったから、ハイスピードで修正中なんだろ。オートだと時間がかかるから、マニュアルで修正したほうが早いぞ。そんなに気持ち悪いなら、俺が修正してやろうか?」
「……お願い真人」
からかい混じりの声で聞いてみれば、そんな懇願が返ってくる。まるで彰彦にものをねだるときのような、甘えた声。
どうやら深雪の感覚を司るプログラムの不具合は、本当にひどいようだ。何故美雪の発注者はここまで人間らしさにこだわり、設計者も忠実に再現したのか。無駄と言うべき、実に人間らしいエラーの症状である。
『いい、自分でやる!』と言い返されると見越してからかっただけなのに、これである。言いだしたのは自分なのに、真人は今更になって内心うろたえた。体内に埋め込まれている疑似心臓が唐突に速く強く打ち、鋼鉄の身体がわずかに熱を持ってむず痒い。
しくじったと後悔するが、もう言ってしまったのだ。観念して舵をオートにすると、真人は深雪に近づいた。
「パネルカバー、開けるぞ」
平然を装う声音で断りを入れ、真人は深雪の左手を持ち上げると、高精度眼球センサーでようやく左手首のあたりに見えるわずかな切れ目をなぞり、パネルを外した。次に自分の左手の甲にあるパネルカバーを外し、腰のポーチからコードを取り出すと、自分の手の甲にあるモノクロのパネルと、白く輝く小さなタッチパネルのそばにある端子に接続する。
右手で二つのパネルを操作すると、OS『真人』が先ほど設定し直したばかりの時刻や現在位置の情報が、OS『深雪』に転送され、上書きされていく。真人の五感を司るあらゆるプログラムが停止し、それでも、OS『深雪』が鈍色のコードを通して真人の思考回路の中で存在を主張する。
情報のコピー作業はほんの数秒で終了し、パネルに完了の二文字が表示された。停止していた真人の五感が、再起動を始める。
深雪は長々と息をついた。
「あーやっと気分良くなった。でもなんで、真人は普通にしてるのよ?」
「そりゃ俺、がっつり金がかかった最新型の日本製だからな? このくらいならすぐ修正できるし。それに、こうなるだろうってわかってたから、すぐ対応できるよう先に設定しといたんだよ」
「……むかつく。私もお金かかってるんだけど」
「こういうときを想定した仕様じゃないだろうが、お前。つーか、設定いじってやった礼もなしかよ」
唇を尖らせてねめつけられ、さすがにいらっときた真人はじろりと睨み返した。礼を言われたいわけではないけれど、この態度はないだろう。
「……ありがと」
いつもの憎たらしい態度はまずいとわかったのか、深雪はばつが悪そうな顔で呟き、そっぽを向く。真人はその素直ではない態度にこそ、ため息をつきたくなった。
二人が気まずく黙りこむ間にも、小舟は静かに上流へ遡っていく。寺院の姿がゆっくりと遠のいていく。
「あれが、『国立生物研究所別館』?」
「ああ。あんなんでもな」
「ふうん……山の中だっていうのに、よくあんなの建てたわよね」
「町中じゃ、空襲があったとき真っ先に狙われるからな。こんな辺鄙なところでああいう外見なら、誰も狙わないだろって、設計者だか時の政府だかが考えたんだろうよ」
「ふうん……」
興味なさそうに深雪は相槌を打つ。
見えていた寺はすぐに姿を隠し、人間の痕跡どころか獣の姿さえも失せた白銀の景色が真人と深雪を包んだ。風がないので木々の枝も揺れず、積もった少量の雪を落とすこともない。鳥がさえずることもだ。音をたてるのは、川を遡る小舟と二人しかいない。
今や日本の数少ない人間の住居区となっている大阪の都市部にある研究所から、二人が何故こんな山奥へ来たのか。それは、所有者たちに人類の命運を託されたからだ。
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