アメーバ






20.


 カーテンの隙間から覗く街の明かりは、まるでアメーバが体を伸ばすように、這いつくばって、攻撃的に光っていた。ビルの隙間に暗闇が落ちていて、そこにも人間が暮らしているのだ。葬式のような格好をした男たち、ピンク色の服を着た女たち他にも様々な人間がうごめいている。このマンションが倒壊したら、きっとたくさんの人間が死ぬだろう。住民はもちろん、周りの人間たちも巻き込まれて瓦礫に潰されるのだ。

「最高に特別な育てられ方をした凡作の子どもたちが足並みそろえて、馬鹿にされたくない、馬鹿と呼ばれることがないように、できるだけ素早く馬鹿にできる対象を見つける目を鍛えている。他人と違うと泣き叫びながら、仲間はずれは嫌なんだ。一人ぼっちはそれだけで馬鹿にされる。仲間を作れない人間は欠陥品だと年月をかけて刷り込まれる。他人を馬鹿にするという技術を学べば、生きるのが楽だ。そうやって我慢してやっとたどり着くのが高級精神クリニックだから笑えてくる。鬱病、躁病、精神不安定。なんの生産性もない無駄な人間...、嫌われないように振舞って、棺桶入ったらまた一人ぼっちだよ。可哀想に」

 男は饒舌に話すと、右手でビールのコップを持って、一気に飲み干した。人差し指に填めた銀のリングに水滴が付いている。先程、僕が缶のまま飲もうとしたら、彼は綺麗なコップを三つ持ってきた。そうして、「缶から直接飲むなんて下品だ」とまるでお嬢様のようなことを言った。

「馨さん、先生になればいいよ」雛菊が、たこ焼きをほおばりながら言った。

「先生なんて呼ばれたら気色悪くて殴るだろうな」男がコップをテーブルに置く。

「殴っちゃえばいいよ」

「姫ちゃんは、いいよばっかりだ」

「ごめんなさい……、良い考えだと思ったから」

「いいよ」

 僕は窓辺に立って、二人の様子を見ていた。まるで兄妹みたいだと思う。雛菊は相変わらず、床に座って膝を抱えている。たこ焼きの器は空になっていた。

「俺は、上履きで窓ガラスを叩き割ったことがある」男は声量を落として言った。「古典の授業だった。よく覚えているよ。ありおりはべりいまそかりだ。ジジイが呪文みたいに唱えていると全部こいつのせいだと思った。こいつが俺を制限している」

「うんうん、あれ、暗号みたいだよね」と雛菊は頷く。

「上履きを手に持って、いや、その前に、机に載っていた筆記用具を床にはたき落とした。前の席の高田がこっちを向いて嫌そうな顔をしていた。ジジイも同じ顔だ。どいつもこいつも同じ顔。俺は手に掴んだ上履きで、窓ガラスを叩き始める。当然、そんなものじゃあ、びくともしないから、拳でも殴った。ガラスがしなる。近くにいた学級委員長の女がやかましい声で叫んでいた。何回くらい殴っただろう? しまいに頭突きもしたけれど、最終的にガラスに当ったのは上履きだった」

 男は足を広げ、膝に手を置き下を向いていた。雛菊はおもちゃみたいに頷いている。彼女も酔っているんだろう。僕は彼らの側へ寄って、さっきと同じ場所に腰を下ろした。頭がふらふらする。

「馬鹿だな、あんた」僕は言う。呂律が回らなかった。「このやりとり自体が、もう何度も繰り返されてきた」

 つかえることなく、乱暴な言葉が出てくる。男は、軽く馬鹿だよと言った。

「貴方はただの馬鹿で何もしていない」僕は、男を睨んだ。「僕は小学生のとき非常ベルを押したよ。押すと書かれていたから」

「押すな、と書かれていたら、引くつもりだったのか」男が冗談を言う。

 僕は無視をして続けた。

「けたたましい音と一緒に教師がやってきて、鬼みたいな顔で、四方八方から怒鳴られた。家に帰っても怒られた。僕がそのときに学んだのは、非常ベルを押してはいけないということ!」

 アハハと男が笑った。僕は無表情で、目の前のビールを飲む。どんどん世界がおぼろげに歪んでいく。ダンスしているようだ。雛菊も笑っていた。

「今度、夜の学校に忍び込もう!」僕は、酒の勢いに任せておかしな提案をした。「教室中の壁に、『自意識』と書いた半紙を貼り付けたい。この部屋に、習字道具はないの?」

「落ち着けよ」男は胸の前で両手を広げた。相撲でもするように。

「落ち着いていたら、そのまま死ぬだろうな!」

 僕は突然、叫んだ。突然、というのは周りの人間から見たときの話だ。

「恥をかかないと、僕らは見向きもされない。恥ずかしい恥ずかしいって、そうやってじぶんを雁字搦めにして身動きを取れない言い訳を作り出した! 貴方は上履きではなく、自分の両手で窓を割るべきだった。あ、そうだ。僕は今から、飛び降りてあげるよ」

「やめろ。お前は、ただの恥ずかしい酔っぱらいだ」男が笑う。

「みんないつだって酔ってるさ。気付いていないだけだ」

 僕は腰を上げると、自分の背丈よりも大きな窓へ向かった。足下を覗くと、遥かかなたに灰色の地面が見えた。どこまでが地上なんだろう。地面の上に立てば、ここだって地上ではないか。こんな高さから飛び降りたら、頭蓋骨が割れて、脳味噌が飛び出して、どこかへいってしまうだろう。

 僕の脳味噌を、誰か、探してくれるだろうか。

「ああ、楽しい。こんなに楽しいのは生まれて初めてだ。どうして、今まで楽しくなかったのだろう」僕ははめ殺しの窓を開けようとする。びくともしなかった。「楽しくなったら、やがて楽しくなくなる。そんなの嫌だ」

「花菱くん!」

 振り返ると、彼女が目の前に立っていた。その時、僕はとても不機嫌な顔をしていたと思う。彼女は、男物のTシャツの下に、痩せた体を隠して、不安そうな顔をしている。腕に注射の跡があった。できれば、献血のやりすぎだと願いたかった。

「死んだら駄目だよ」彼女の声は冷静だ。

「嫌だね。それを認めたら、人に指図されて から死ななければならなくなる。僕は死刑囚か」

「指図じゃないよ。死んだら駄目なんだよ」

 雛菊は泣きそうな顔になる。

「どうして」僕は少女を睨み付ける。

「ロケットは雨に濡れるの?」

「そんなの、図書館で調べれば分かることだよ」

 雛菊の目から涙が溢れるのを黙って見ていた。不思議なくらい、無感動にその様子を観察できた。雨が降るのを部屋の中から見ているみたいだ。

 彼女は両手で顔を覆い、膝を抱えて泣き出した。黒髪が重力に従って、斜めに落ちていた。

「花菱くん」

 それは間違いなく、僕がかつて好きな女の子だった。

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