オレンジノート
12.
「兄さん、学校の人が来てるよ」
僕は黙る。教師だと勘ぐった。
「誰?」扉に向かって妹に聞いた。
「雛菊さんって、女の人」
僕は布団を急いで引きはがす。大きく息を吸う。カーテンを乱暴に開け、外を見た。
庭先でヒマワリが揺れている。しかし、玄関は奥まったところにあり、屋根に隠れて見えなかった。
彼女は何をしに来たのだろう。
僕は立ち上がり、扉に駆け寄る。そこで自分の格好を思い出して、顎を触った。ザラザラしている。タンスの横の小さな鏡には、みすぼらしい男が立っていた。
僕は、鍵を開け、階段を降りていく。扉の前で、妹が驚いた顔をしていた。無理もない。僕は、一段一段、足下を確認しながら階段を降りた。降りたらすぐ玄関だ。
「こんにちは、花菱くん。お久しぶりです」
彼女が言った。夏服のセーラーに紺のリボンが上品に巻かれている。相変わらず、赤いリュックを背負っていた。
「ああ」
僕は、彼女の前に立つ。つま先で踝を掻くと、「どうも」とそれだけ答えた。
「病気なの?」
彼女が首を傾げる。僕は首を振る。顔が見られなかった。
「なら、良かった。これ 、先生が渡してって」
彼女はオレンジ色のノートを差し出す。名前を記入するところに「心のノート」と書かれている。
「あと、これ、遅くなったけれど……」
彼女は、背中に手を回すと、紳士傘を渡してきた。それは、死んだ保健医の傘だ。一体、どこで見付けたのだろう、と思う。
僕はノートと紳士傘とを交互に眺めて、彼女の細い指先を見た。僕の頭の中に、あの雑居ビルの光景が浮かぶ。そうか。僕は、あそこに傘を落としてきたのだ。
同時に、上下に揺れる頭が浮かび、ため息のような声、息遣いに悩まされる。
強烈な吐き気を覚えて、倒れそうになった。壁に手をついて持ちこたえる。さっき見た映像が蘇る。頭が痛い。割れそうだ。いっそ割れてしまった方が、痛みはなくなるのではないだろうか。
「帰ってくれ……」口に手をあてていたので、声がくぐもった。
彼女はえっ、と言う。
「でも……」
「帰れと言っている!」
僕は叫んだ。声は家中に反響した。差し出された彼女の手を振り払うと、傘とノートが落下した。
僕は、急に恥ずかしくなって、頭を降って、結局、彼女の顔を一度も見ぬまま、また階段を這い登っていった。雪山を登るみたいに。
二階で妹が怪訝な顔をしていた。
僕は、死にそうだった。
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