ホワイトフロア




4.


 七月の直前。梅雨明けしたかどうか分からないまま、暑さだけが日増しに強くなっていた。

雨が降った。薄暗い世界で、雨粒が生活音をかき消していく。

 僕は、保健室のベッドに転がって窓を見ていた。クラブハウスの向こうに見える校庭は、まるで巨大な水たまりだ。

 渡り廊下を生徒たちが騒ぎながら歩いていく。先週から、冬服は夏服に移行した。男子は半袖のカッターシャツに綿のズボン。女子は白地のセーラーに水色の襟、スカートは濃紺で靴下は白だった。

「花菱くん、傘持ってる?」

 振り向く前に、カーテンが開いた。その隙間から保健医が顔を出す。体調が万全の人間にも寝場所を与えるのが彼女の仕事だ。ベッドの数には限りがあるから、本当に体調の悪い生徒が来たら追い出される。

「本当に体調の悪い人間を見極めるのが保健医の仕事だ」と彼女はよく言う。

「傘、持っていません」僕は寝転んだまま答えた。

 窓ガラスに当たる雨粒は、下へ下へと流れ落ち、粒同士が引き合って、まるでヘビが這ったような跡を付ける。

「天気予報を見ないの? 降水確率、高かったでしょう?」

「うちにはテレビがありません」

「どうして?」

「何がです?」

 テレビがない理由を尋ねられたのか、と思った。

「どうしてテレビを見ないの?」

「どうして見るんですか?」

「え?」

 保健医は不思議そうな表情をする。

 数あるテレビ番組のなかでもバラエティ、とりわけ、たくさんの芸能人が顔を合わせてしゃべる番組は嫌いだった。

「だって、面白いよ。笑えるし、疲れが取れる。それに、あれがあの人達の仕事だから」

「仕事だから?」

「見てあげないよ可哀想」

 保健医はしばらくじっと僕の顔を見ていた。

「すみません」と答えてから、どうして自分は謝ったのだろう、と思った。

「これ持って行きなさい」

 そう言うと、保健医はいったんカーテンの隙間から姿を隠し、戻ってくると深緑色の傘を持っていた。柄が黒で、飾り気のない紳士用だ。

「私は車だから、駐車場まで走れれば大丈夫」

 僕はたぶんキョトンとしていた。

「ありがとうございます。明日には返します」

「約束は要らないわ」確かに彼女はそう言った。眉が神経質にビクリと動く。不快そうな表情になる。

「どうしてですか?」僕は首を傾げる。

「嘘吐きになってしまうよ」

「嘘吐き?」

「そう」保健医は頷く。

「約束をするのと、嘘を吐くことは、違うと思いますが」

「約束を守れないのは嘘と同じよ」

 彼女は吐き捨てるように言った。苦しそうな表情をしている。僕には見えない水にでも溺れているんだろうか。

 リノリウムの床が明かりを照り返す。

 腕時計を確認する。もう夕方だ。

「これ返せなかったら、どうします?」

 僕がそう言うと、保健医が大きな声で笑った。僕は少し怖かった。

「ねぇ、花菱くん。僕は嘘吐きです、って言ってみて」

「は?」

 入り口の戸に手をかけたところで声をかけられた。保健医の顔は、逆光でよく見えなかった。

「なんですか、それ」

「気にしないで。傘の代金だと思って答えて」

「傘の代金?」

「そう」

 意味が分からなかった。それこそ、嘘だろう。

「僕は……、嘘吐きです」

 嘘吐きだ、と嘘を吐いた。

 どうしてこんなことを言うんだろう。

「どうもありがとう。事故に気を付けてね」

 彼女はひらひらと手を振った。表情はよく見えなかった。

 僕はゆっくりと頭を下げて、気づかれないように扉を閉めた。

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