ウォーターフォウル
21.
10月のある日曜日。正午前に、僕は駅の改札に立っていた。右手に、コンビニの袋を持っている。中には銘柄の違うジュースが入 っていた。
秋とは思えない暑さ。地下に潜ってもじっとりとした湿度が汗を誘った。僕はたびたび振り返って改札の向こう側を確認した。携帯を取り出して、自分がどこにいるかをメールで相手に伝える。
すると、「花菱くん」という声と同時に肩を叩かれた。振り返ると、思いがけず笑顔が待っていた。僕は腕時計を見て、約束の時間を思い出す。
「おはよう、待った?」と彼女は言う。
「いや、今が約束の時間だよ」僕は時計を見ながら答える。「おはよう」
足は、地上へ出られるエスカレータに向かう。
彼女はふんわりと広がるワンピースに、半袖のカーディガンを合わせていた。白地にオレンジの小花柄だ。僕は、大きく開いた胸元に目をやらないように気をつける。自然と鎖骨に 目がいく。ハートのネックレスが光っていた。
彼女が先にエスカレータに乗る。この地方では右側に並ぶのがルールなので、僕は雛菊の後ろに並んだ。
「これ、良かったら」とコンビニで買ったジュースを見せる。すると、彼女はわっと言って、レモン味のジュースを手に取った。
「ありがとう」と彼女が言う。
僕は黙ってリンゴジュースの蓋を開けた。ビニール袋を鞄の中へ仕舞い、液体を一気に飲み込む。冷たい感触で、生き返るような気がした。彼女はペットボトルで額を冷やしていた。
「外はきっと暑いだろうね。地下鉄は寒いくらいだった」
地上にたどり着き、僕らは太陽の下を歩き出す。日陰が見当たらない。先ほど入ったコンビニはお昼時だからか、人がたくさん入っていた。< br>「干物になっちゃいそう」と彼女が言った。
信号が変わるのを待って、多くの人たちといっしょに横断歩道を渡っていく。男女のペアが多かった。それ以外は、親子連れ。
「どうして黒い服を着てきたの?」と彼女が言った。「暑いでしょう」
その通り、僕は真っ黒い長袖のシャツを着ていた。
「なんでかな、日焼けしたくない」
本当は、もっと明確な理由があった。それは、腕の汗疹を隠すためだ。僕は小さいころから乾燥肌で、汗をかくとすぐに汗疹ができる。特に、間接部分は危険なので、夏でも長袖を着て肌を守っている。そんな弱い体質が恥ずかしいと思っている。彼女は、ふうんと言って別の話を始めた。馨の話だった。
「そういえばね、馨さんがいきなり、岡山に行くとか言 い出したの」
「岡山? どうして?」僕はびっくりした。
馨とは、あの夜以降も何度か酒を飲んだ。ほとんど、朝から晩まで。
「知らない。『クラシキが見たい』とか言っていたよ。クラシキってなんなの?」
「倉敷は地名だけれど、えっと、いつから?」
「一昨日の夕方から。飛行機のチケットをインターネットで買ってた」
僕らが酒を飲んだのは3日前の木曜日だ。
「馨さん、先生になるのかな」雛菊が声を弾ませた。
「いや、倉敷に行っても、先生にはなれないよ」と僕は答える。
「そんなの知ってるよ」と雛菊は口を尖らせた。「でも、先生になるんだよ、きっと」
やがて、土産売り場を通り過ぎ、喫茶店のある角を曲がると、海が見えた。ロッジを歩き、階段を下りる。 左手に、オレンジ色の船が止まっていった。マンションのように大きい。でも、あれは動かないものだ。自衛隊の船の中を有料で閲覧できるようになっている。僕らは船に背を向けて右手に曲がる。道の真ん中にイルカの形をしたオブジェが立っていた。電灯がついているので夜になったら綺麗だろう。メタリックな歩道橋の先に巨大なドームが見えた。小さい頃にも来たはずだけれど、小さい頃に見たときよりもより大きく感じた。宇宙船のような形をしており、第一館と第二館に別れている。確か、遠い方の第二館にイルカショーのプールがあったと思う。遠い記憶を探り当てる。
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