カラフル




8.

  

 僕は、紳士傘を持ったまま校舎を出た。空を見上げると、雲の塊が浮かんでいた。ゆっくりと動いているのが分かる。

 僕らも、実際は星の上で忙しなく動いている。星自体も動いている。地球は時速千七百kmほどで自転しながら、更に十一万kmで公転している。そんな数字を、ただ覚えている。

 そういえば、ブラジルのヤノアマ族は、三よりも大きな数を表す言葉をもっていないそうだ。その代わりに「たくさん」という意味の言葉を使う。

 彼らに星の自転の話をするとき、どんな単位で会話をすればいいのだろう。

 例えば、宇宙に巨大な座標を敷くとしよう。

 アリストテレスは、できごとには空間内で絶対的な位置を与えることができる、と信じていたが、それは不可能だ。できごとの位置と距離は、決めたとしても、決めた人間の感覚器官と主観による。

 僕は自分の位置を確認してみたかった。

 知らない間に、自宅の前を通り過ぎ、開かずの踏切を渡っていた。

 土色の建物にベランダが等間隔に並んで、色の違う洗濯物が干されている。彼女の部屋は五階で、コの字の端。僕は、そちらを確認すると、商店街へ戻った。

 僕は、ただ自分の足が動くのを見ていた。赤いラインのスニーカーは最近購入したばかり。

 アーケードを抜けると、街路樹に挟まれて五車線の道路が見える。左右に高層ビルを配し、隙間に見える空は灰色だった。今にも雨が降ってきそうだ。重苦しい雲が流れる。

 頭の中で地図を回転して、自分の位置を確認する。腕の時計を見ると、とっくに十九時を過ぎていた。どうりで暗いわけだ。今まで、僕はずっと下を向いて歩いていた。

 スクランブル交差点を渡り、明かりのない方を目指す。有名なブランドショップの奇抜なデザインが目に入る。道ゆく人たちは上等な服に身を包む。

 薄暗い街路樹の下に男がひとり。黒いスーツを着て、夜に同化している。女を見付けると、声をかけている。

 デパートを繋ぐ連絡橋の真下を通る。自転車や原付が乱雑に並べられ、極端に道幅が狭い。

 やがて、煌びやかなネオンが僕を招き入れた。赤や、青や、オレンジの光が明滅して、歩く人々の影を揺らしている。「人妻」や、「学生」という単語がそこかしこで目に入る。

 ほの暗い洞窟の入り口で 、客引きの男が膿み疲れたような顔をしている。飲みすぎた酒が目の下に溜まっているんだろうか。

 使用済みのタオルが入った青い袋が、軒下に並べられていた。目の前の騒がしい景色と反して、不思議なほど静かだ。僕は、自分が制服を着ていることを思い出して、猛烈に恥ずかしくなった。

 その時、ピンク色の立て看板の下に、見慣れたシルエットを発見した。水色のセーラーと黒いリュック。背の低い少女の後ろ姿。

 慌てて走り出そうとするのを抑えて、僕は彼女から距離を保って歩いた。

 まるでピクニックでもするように、足取り軽く彼女は歩いていく。短い髪をなびかせて。時々、黒いスーツが話しかううけるが、彼女が何かを言うと、男の方が笑って手を振った。慣れている様子だった。

 肌を露出した女が店先で笑っている。両手を組んで、壁の縁にもたれていた。まるで、骨なんて忘れてしまったように、なめらかに首を傾げている。女は、斜めに立っていた。

 黒い男たちは、声を張り上げながら、女の値段の描かれた札を掲げている。僕は底なしの沼を歩くような気分で、出口を探していた。

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