ブラウンペーパー
10.
僕が産まれて初めて覚えた景色は、風にはためく鯉のぼりだ。庭の感じから、自宅ではない。祖母の家だろう。
鯉のぼりは、赤と青と、オレンジ色があって、太陽の光を浴びて輝いていた。空は晴れ渡り、近くで住宅を建築する重機の音が聞こえた。
僕は、誰かの腕の中にいた。暖かさに抱かれ、短い手足で泳ぐように呼吸していた。祖母の家は隣県にあり、家からは往復で四時間掛かる。子どもの頃は、連休があるたびに家族で遊びに行ったが、祖母が亡くなってからは、一度も行かなくなった。
屋敷から味噌汁の香りが漂って空腹を感じた。でも、僕はしゃべれないので自分を抱える人の腕を叩いた。白すぎる胸が目の前にあって、柔らかかった。あれは、一体、誰の腕だったのだろう。艶やかな生成り色のワンピースを着て、細い手がすらりと伸びて、綺麗な指が並んでいた。
次に思い出すのは、ピアノの音。
僕は歩けるようになって、頻繁に家の中をうろついていた。運動会ではいつも一番だったし、近所のサッカー組合にも入っていた。体を動かすのが好きだった。玄関から入って、台所へ向かう。目当ての菓子がテーブルにないことを悟ると、リビングに続く障子を開ける。夕焼けの光が座敷を赤く照らしていた。よもぎの香りがたちこめ、鴨居の上には親戚の遺影が並んでいた。
ピアノの音は、左手が同じ旋律を繰り返し、右手がずっと高音を奏でていた。今ならドビュッシーの『夢想』だと分かる。その時は、ただ眠くなる曲だと思った。ツツジが強烈な色合いで咲き誇る。
「レンくん、邪魔しんといてね」
女がピアノを弾きながら言った。僕は邪魔する気などなかったので、傷ついた。女の足下で、大人しく体操座りをする。見上げると、白い脇が見えた。細長い腕のしなやかな動きは、蜘蛛みたいだった。
「お母さん、向かえに来てくれるかな」
そのとき、突然、曲調が変わり、今度は雨のように連続的で激しい音が叩き付けられる。曲の名前は、今でも分からない。女の笑い声が混じってとても怖かった。僕は膝を抱えて下を向いていた。母は、一体どこへ行ってしまったのだろう。その頃、母は父との関係が上手くいかず、情緒が安定していなかった。彼女が家出をするたびに、祖母の家へ預けられた。いつもそこに女はいた。
音楽が止まる。僕は顔を上げた。女と目が合う。彼女は病的に色白で、目は美しい二重。椿のように唇が紅かった。長髪を結んで、肩の上になだらかな曲線を描いている。小花柄のシャツの上に、真っ赤なカーディガンを羽織っていた。
「そうだ。ええこと教えたろか」女はにっこりと微笑み、僕の頭に優しく手を乗せる。「お母さん、君のこと嫌いやで」
外で鳥が鳴いていた。
「お姉さんは、お母さんから話聞いとんねん。君のこと嫌いやから、出てってしまうんやで。分かるやろ?」
絵本を読み聞かせるような声だった。僕は顔を膝の中へ埋めて、うなり声を上げる。その頃、どもりが激しくて上手に喋られなかった。特に、女の前ではまともに話せなかった。
「可哀想になあ」
「な……」僕の声は震えていた。
「こんなにええ子なのに。可哀想になあ」
「こん……」僕は泣きそうになる。
女は眉を上げて、楽しいのか悲しいのかよく分からない不気味な顔をすると、そっと椅子から降りる。目の前で、両手を床に付いて、僕の顔を覗き込んできた。彼女の目は、底なしの穴だった。
「でも、私は好きやで。レンくんのこと。この家の中で、一番好きや」
女がねっとりした声を出した。
「ぼく……」僕は首を振る。髪が乱れるのも構わずに。
その時、女の顔が奇妙に歪んだ。僕は、首を回してリビングへ視線をそらす。ピアノの音を失った家の中はただただ静かで、どこにも逃げ場がなかった。
「レンくん、こ っち向きや」
女が僕の顎を掴み、無理矢理動かす。僕は抵抗を試みたけれど、大人の力には敵わなかった。眉間にありったけの力を込めて、睨んでやる。
すっくと女が立ち上がった。顔が、遠く離れていく。
体を支える足首は、片手で掴めそうなほど細かった。
膝頭が蚊に刺されて赤く腫れていた。
女が、スカートの裾を持ち上げる。
彼女は、何も穿いていなかった。
「ほらここや、見えるやろ?」
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