グレイチェアー




2.


 雛菊冷は、まるで大正時代のように短い黒髪を耳の横でまっすぐに切りそろえたおかっぱ頭で、背が低く、手足の細い、きめ細かな肌をした女の子だ。

 僕は彼女が好きだ。

 でも、まだ彼女と話をしたことがない。まだ、というのは希望を抱いているから。

 今、僕の前では、三人の男子が下品な話をしている。女性の裸が表紙を飾る雑誌を見ながら、自分の彼女が、行為の際にどのような体位が好きだとか、どこのメーカーが安全だとか、そういった話を楽しそうにしている。

 なんのためにそのような個人的情報を共有するのか分からない。彼らが面白がっているものは、僕には得体が知れない。

 罰ゲームで目隠しをしながら箱の中を手探りするような気持ち悪さだ。

 何も聞きたくない。

 繰り返される単語から気を遠のかせ、僕はずっと下を向いて本を読んでいた。イヤフォンを耳に詰め、マーラーのアダージェットを聴いた。海のように大らかな曲だ。

 そう、たとえば、僕と彼女が恋人になったとしよう。

 そうなったら、目の前にいる三人の男たちと「同じようなこと」をして、映画で言い尽くされた言葉を交わし、その後はどうする?

 どうしようか?

 子どもでも産むのか?

 それは本当に僕の願いを叶えたことになるんだろうか?

 欲望と願いの違いはなんだ?

 そんなふうに自分勝手なことばかりを考えて、結局、三ヶ月経っても彼女に一度も話しかけられなかった。

 入学説明会は、三月の終わりに校舎裏の体育館で行われた。

 舞台の前にはパイプイスが敷き詰められ、生徒と父母がそれぞれ並んで座った。まだ中学の制服を着た見知らぬ同級生たちは、学校から配られた資料に目を通しながら、落ち着きなく周りの様子を窺っていた。

 後から考えればわずか三年間に、絶大な不安を覚えているのだ。

 この三年間がどれほど重いか、僕はこの時まだ知らない。

 この日、僕は遅刻をした。

 母親に車で送ってもらったけれど、高校の位置を勘違いして、二十分も遅れてしまった。「カーナビを付けた方がいい」と伝えたら、「送ってやったのに何だその言いぐさは」と怒鳴られた。

 僕の母親は、気分に大きな波があり、情緒が激しい。不機嫌になると、たびたびヒステリーを起こす。そうなると、論理的な対話は不可能だ。

 僕は母親が嫌いだった。

 見えてきた校門へ乱暴に乗り込むと、乗用車が二列に並んでいた。角の方に車を停めて、シートベルトを外し、僕は急いで体育館へ向かう。母親は車に残ると言っていた。意味不明だ。

 体育館は正門から一番遠い場所にあった。青色の屋根と黄土色の壁。

 持参した靴に履き替えて、重たい鋼製扉を開けると、大袈裟な音がして恥ずかしかった。恐る恐る中を覗く。薄暗い。そこは、舞台の袖にあたる場所だった。説明会を待つ人々の訝しげな顔が、遅刻した僕を迎えた。

 そのとき、僕の目の前にいたのが雛菊だった。

 会場の最前席に座る彼女は、二本の足を行儀良く揃え、背筋を伸ばして体はまっすぐ前を向いていた。

 目だけがこちらを見る。

 彼女の隣にも、空っぽの椅子があった。

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