アボリジニ




19.


 玄関に入ると、磨かれた大理石の上で靴を脱ぎ、柔らかい絨毯に足を乗せた。靴箱に、ガラス細工の置物が置かれている。イタリア産の物だろう。魚の形と、天使の形をした物があった。どちらも手の平に収まるほど小さく、色とりどりの宝石が水滴のようにちりばめられていた。

 男が、ふらついてボッティチェリの絵にぶつかっていた。レプリカだとしても、この大きさなら値が張るだろう。

 僕らは、雛菊の後ろを追って、真っ直ぐな廊下を進む。壁には、美術の教科書に載るような有名な絵が飾られ、いくつも扉があった。

 でも、僕はそんなものより、彼女の巻いたバスタオルが落ちないかと心配で、気が気でなかった。

 廊下のつきあたりに、窓の付いたドアがあった。雛菊が開けてくれたので、雪崩れ込むように中へ入った。そこは、学校の教室くらいの広さがある開放的なリビングで、窓が多く、白を基調とした豪奢な家具が並んでいた。

 ふと、右側を向くと、奥にキッチンがあった。

 外食店で見かけるような背の高い冷蔵庫がある。

「まあ、座れや」

 男は、部屋の中央に配置されたガラス板の机にたこ焼きを乗せると、毛の深いソファに体を沈めた。

 右手で、僕の方に手を振っている。僕はそっぽを向く。

 雛菊は、男の対面に座って、たこ焼きをジッと見ていた。猫みたいだ。僕は、男と雛菊を頂点として三角形を形成するように、もし正式な場であれば上座と呼ばれる所に行く。ソファには座らず、床で膝を折った。

「お前らインド人みたいだな」と男が笑う。彼にしてはマシな冗句だ。

「食べてもいいですか?」雛菊は、たこ焼きに爪楊枝を刺しながら、質問をする。

「駄目だと言ったら、それ、取れよ」男は雛菊のバスタオルを指さしていた。

「うーん、難しいことを言わないでください」

 雛菊はたこ焼きを中空に持ち上げて、困ったような顔をする

「食べて良いってことだと思うよ。それより、服を着てきなよ。そんな格好をしてると風邪を引くよ」

 僕はあま り彼女の方を見られなかった。

 雛菊は「えっ」と言ってたこ焼きを器に戻すと、一瞬だけ僕の方を見た。顔が赤かったような気がする。立ち上がると、駆け足でリビングから出て行った。

「お前に食べさせるたこ焼きはねえよ」男は両手で頭を支えながら、後ろにのけぞった。

「いりません」

「いりません」僕の口調を真似して言う。「それより、さっきの質問に答えてほしい」

 彼は勢いを付けて体を持ち上げると、僕の方へ体をよじる。顎に髭の跡が残っていた。

「なんですか?」

「君は雛菊が好きか?」真剣な顔だった。

「ああ……」またそれかと思った。「僕には、分かりません」

「分かりませんじゃねえよ」男の目の下がビクリと痙攣したのを僕は見た。電気が走ったような動き だった。「面白半分に関わるなら、殺すぞ」

「全然、面白くはありませんね」知らぬ間に、僕は微笑んでいた。「絶対、殺されたくないし」

 室内に降りた沈黙は、重苦しく、ふざけた音を寄せ付けない圧迫感があった。カーテンはどれも閉じられている。冷静な空調は、静かに唸っていた。

 アハハハ、と男が笑い出した。まるで、ドラマの演出のようだ。しかし、声の感じとは違って、今までで一番怖い顔をしていた。

「ふざけるなよ、クソが。適当ぬかせば格好がつくと思ってんだろ。ヘラヘラ逃げ道作りやがって」彼は、怒っていた。「つまんねえんだよ」

 男はたこ焼きをひとつ掴むと、僕に投げつけてきた。頬に当って床に落ちる。とても熱かったので、火傷をしたかもしれ ない。それは男の右手も同じだろう。

「そういえば、昔、僕は彼女のことが好きでした」僕は言った。

「あ?」

「でも、今は好きとは言えません。どちらかというと、さっきみたいなだらしない格好で他人の周りをうろつく人間が嫌いですし、彼女のレスポンスの遅さにもイライラします。他人に対する自分の好意を計量化できたらいいですね。貴方はどうなんですか? 彼女に好意を持っていますか?」

「持ってるよ。でも、俺は彼女がいるから、好きとは言えないな」肩をすくめる。「姫ちゃんは、大切な友人だ」 

「裸の友人と暮らしているんですね」

「アボリジニにも同じこと言ってみろよ」

 僕らは互いに睨み合い、やがて笑った。空気がはじけ、解放され、ようやく息が吸える。男がたこ焼きを口に入れて 熱い熱いと言う。

 やがて、半袖のTシャツを着た雛菊が戻ってきた。手には缶ビールを持っていた。

「あっ、まだ、たこ焼き食べないで……」

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