メンソール





16.


 雨が降っている。傘はさしていない。

 夜にそびえる雑居ビルは、明かりも漏れず、入り口が唯一の光源だった。

 ガラスの扉を開けて入る。見慣れない男がタバコを吸っていた。手元に灰皿を持っている。白い煙が立ち上って逃げ場を失っている。僕は、男とあまり目を合わせないようにして、階段を登ろうとした。

「ねえ、きみ、花菱くんでしょ」

 一段目を登ろうとしたところで、振り返る。中空に足を止めた。タバコを吸う男は明らかにこちらを見ている。

 花菱と読んだのだ。

 僕は男の方へ体を向けた。

「姫ちゃんから聞いてるよ、きみのこと」

「えっ」

 男が歯を出して笑った。彼は背が高く、髪は明るい茶色で、白いシャツに黒いベストを着ていた。足元は、先の尖ったキャメルの革靴だ。顔は日に焼けて、浅黒かった。

「姫ちゃん、ここにはいないよ」

 男は煙の上がるタバコを、親指と人差し指で掴んで宙に投げるような動きをした。自分でも、どうして得体の知れない男の言葉を真に受けたのか分からない。彼とは自己紹介すらしていない。

「俺の家にいるから」

 彼はにやりとして、頬にできたえくぼが気味悪かった。

「貴方は誰ですか?」僕はゆっくりと尋ねる。

「あれ、知らないの? わりと、顔出してると思ったんだけどなあ」

 指示語を付けろ、と思った。

「カオルでいいよ」と男は言った。「本名、それだから」

「本名?」

「あらら、本当に知らないみたいね。今時、きみ、凄いね。面白いよ。うちへおいで。お茶なら出すよ。姫ちゃんもいるし」

 ハハハ、と男は笑った。

 猿みたいに手を叩き出しそうだ。

「カオルさん、姫ちゃんというのは誰のことですか?」僕は尋ねる。

「ボクは知らない。姫ちゃんとしか」彼はわざとらしく一人称を変えて答える。

「そうですか」

「クラスの友達なんだろ? もしかしたら探しにくるかもって、姫ちゃんが言ってたから、待ってたんだよ」

「待っていた? 僕がいつ来るかなんて、分からないでしょう?」

「毎日待てば、いつかは来るだろう」男は片方の眉毛だけを上げる。「それに、俺の職場はこの上だ。タバコを吸うにはちょうどいい」

 男は、タバコを手持ちの灰皿に擦り付けると、こちらに向かってきた。

 僕は避けようとするが、彼の太い腕に引かれて建物の外へ出る。足がもつれそうになるのも構わず、男はどんどん歩いていく。

 外灯が雨の筋を照らして綺麗だった。絹が風にそよぐようだ。

 小走りで、雑居ビルの裏へ回ると、そこに車体の低い高級車が停まっていた。男がズボンのポケットに手を入れると、カチリと音がして、ヘッドライトが瞬いた。

「はい、どうぞー」

 男は、柔らかい口調とは正反対の猛烈な力で、僕をその車の中へ放り込む。

 革の座席に尻餅をついた。

 男も乗り込んできて、夜と雨の中を走り出す。

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