第9話 アリスは証言する --4

『なんだ、アリスか。君にはもう用がないんだけどな』

 私の手からぶら下がったマリオネットはそうぼやいた。肩をすくめる様子が目に浮かぶような声だったけれど、もちろん見た目にはこの人形は一切動いていない。声だってたぶん本当は実際に発されているわけではない。だってメイドさんは驚いた顔をしていないもの。彼女には聞こえていないのだ、思い返せばいつでもそうだった。マリオネットのものらしい声は私にしか聞こえていなかった。

 マリオネットはかなり古いもので、操り糸が何本か切れてしまっている。修理しなければ動かすことはできないだろう。服装はシンプルだ。擦り切れた木綿でできた深緑色の半ズボンと赤いチョッキを着ている。丸くて薄いクリーム色の帽子をかぶっていて、羽の飾りがついていたらしいがほとんどなくなってしまったようだ。不思議の国のアリスにはこのような登場人物はいない。それでも私はこのマリオネットを見たことがあった。

「あの、これは」

「他の人形とは違うものだから、廃棄するようにと。なにか、いけなかったでしょうか?」

 メイドさんが首をかしげる。私はいいえ、と答えてマリオネットを胸に抱いた。

「ええと、それじゃあこれは私がもらってもいいですよね?」

「え? はい、大丈夫だと思います」

 彼女がうなずくとすぐに私はありがとうございます、とお礼を言ってきびすを返す。何も聞いてはこないだろうが、詮索されたら少し困ってしまう。私は自分の部屋を目指した。

『あーあ、なんでよりによってアリスなんだろ』

『まあ帽子屋とかは怖いからやだけどさあ』

『っていうかどこ行くんだろ?』

 腕の中でマリオネットが一人喋り続ける。それに返事をすると他の人にはまるで私が一人で会話をしているように聞こえるだろうから、廊下では黙っていることにした。私は記憶をたどりながら、この子はこんなにおしゃべりだったっけ? と首をかしげる。

 私がこのマリオネットを見たのは、アリスのマリオネットとしてマスターと一緒に人形劇をやっていたときだ。マスターはマリオネットを全部あの黒いカバンの中に入れていた。もちろん私もいつもその中に入っていて、出番のときやマスターに手入れしてもらうときだけ外に出してもらった。カバンの中は見た目よりかなり広くて、たくさんのマリオネットたちがいた。それぞれが入れられる場所は特に決まっていなかったから、そのときのマスターの気まぐれによって、帽子屋さんの隣になったり女王様の隣になったりした。ただ唯一決まっていたのは、いつも一番奥に黄ばんだ布にくるまれた謎のマリオネットが一体いることだった。それは滅多に外に出されることがなくて、私はどんなマリオネットなのか気になってよく声をかけていた。返事はあまり返ってこず、あったとしても一言二言で終わりだった。

 彼の姿を見たのは一回きりだ。いつのことだったかは忘れたけれど、どこかの宿でのことだ。その日はお休みで、マスターは一日中のんびりとマリオネットたちの糸を結びなおしたり、金具のところに油をさしたりしていた。全員の手入れが終わってから、最後にその黄ばんだ布ごとそのマリオネットを取り出したのだった。私はそのときカバンの中にいたのだけれど、取り出すときに少し布がめくれてマリオネットの姿が見えたのだ。マスターは彼に何か話しかけていたようだった。残念ながら、カバンの中にいた私には聞き取れなかった。一つだけ分かったのは、彼をまた同じ布にくるみなおして、カバンの一番奥の定位置に戻すときだ。マスターは「またね、チャーリー」と言っていた。チャーリー、それは彼の名前だ。

 私の部屋に戻ってきた。後ろ手にドアを閉めて灯りをつける。もう夕暮れ時だ。

『豪華な部屋だねえ』

「そうですね」

 彼は歓声を上げたが、それにはいまいち感動がこもっていない。社交辞令かと思いつつ適当にうなずいておくと、彼は黙ってしまった。

 部屋の中を見渡して、私の目に留まったのはベッドの隣に置かれた背の低い衣装ダンスだった。ちょうど腰の高さになるその上にはいろいろ綺麗な置物があるが、ずらせば十分スペースができそうだ。私はとりあえずマリオネットをベッドの上に置いて、壊さないように気をつけながら衣装ダンスの上の整頓を始めた。

『まさかアリス、そこに飾る気?』

「え。えっと、いけませんか」

『飾る気、なんだろうな。つまり僕はまだ壊れないわけだ』

「あの・・・・・・?」

 なんだか、彼の反応がおかしい。私は手を止めてベッドを振り返った。

『壊されないならまだ終わりじゃない。なんとかできる』

「すいません、どうかしました?」

『いや、でも僕だけじゃ何もできないじゃないか、それじゃダメだ』

「・・・・・・?」

 会話が全く噛み合っていない。もしかしなくても、私の声は彼に届いていないのではないだろうか。私はベッドに腰掛け、彼を両手でそっと目の高さまで持ち上げた。

「もしもし。私の声、聞こえていますか?」

『マリオネットはいないし、マスターだっていない。どうしようもないよこれじゃあ』

 やはり聞こえていない。つまり一方通行なのだ。向こうの言っていることは分かるのだけど、私の言いたいことは伝えられない。私は諦めて彼をベッドの上に下ろした。また立ち上がりタンスの上の置物を動かしに戻る。

 彼はしばらく黙っていたが、ちょうど私がタンスの上に彼のためのスペースを空けたのと同時に衝撃的な発言をした。

『マスターに指一本でも触れれば、また操れるんだけどな』

 すぐには理解できなかった。何度も頭の中で反芻して、言葉の意味をゆっくりと飲み込んでいく。そして彼が何を言ったのか分かった瞬間、脳みそが凍り付いたみたいになって思考がストップした。



『おいおい、どうしたんだよアリス、いきなり座り込んじゃって』

 からかうような彼の声で、私は自分が床にへたりこんだことに気付いた。驚きで頭の中が真っ白になったのだ。一瞬だけ意識が飛んだのだろうか。こういうのも気絶っていうのかな?

『貧血かな。残念だったね、今は操れるマリオネットが近くにいないから助けは呼んであげられないよ。たとえいたってアリスなんかのためには呼んであげないけどね! あははっ』

 彼は私に嘲笑を浴びせてくる。私はそれを無視して、記憶の中のマスターを一つ一つ脳裏に浮かべていった。

 私にお疲れさまと言って笑いかけてくれるマスター。優しいしわしわの手で手入れをしてくれるマスター。そっと撫でてくれるマスター。再会したときの悲しそうなマスター。捕まって怯えたマスター。そして、ルノさんやランさんと対峙したときの冷酷なマスター。私を銃で狙ったマスター。

 別人みたいだとずっと思っていた。優しいマスターと怖いマスター、どっちが本当の彼なのか分からなくて悩んできた。一時はマスターが怖い人だと思う気持ちが強かったけれど、彼が捕まってからはやっぱり優しい人なんじゃないかと思った。でも、もしこの二面性がマリオネットのせいだとしたら。マスターが本当は優しい人で、誰かを傷つけたりなんてとてもできるような人じゃなくて。人を人形に変えたり、ルノさんやランさんを容赦なく殺そうとしたりするのは彼に操られているからで。そうだとしたら説明がつくのではないか?

 人間に戻ってから初めて再会したとき、マスターはしきりに私に謝っていた。そして自分と一緒にいてはいけないと言った。それは、自分が操られていて、望まないことでも無理矢理させられてしまうと分かっていたからではないのか?

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