第1話 マリオネット --3


 突然現れたもう一人の知らない男の人はしばらく呆然として固まっていたが、やがて我に返ったようで後ろ手にドアを閉めつつ建物の中に入ってきた。私をここに連れてきた人とは別人のようだが、部屋の中は暗くてよく見えない。ただ、シルクハットをかぶっているらしいことは影の形からわかった。

「君は……」

 彼は何かを言おうとして、少しためらってからまた口を開く。

「君の名前は?」

「……」

 私は黙っていた。さっきマスターのことを呼んだときみたいに墓穴を掘ることになると思ったからだ。さっきの人みたいに怒り出したらどうしよう、と思ってうつむき身を縮める。それにしても変な人だ。普通、こんな状況で名前を最初に聞こうとするだろうか? どうしてこんなところにいるのか、とかお前は何者だ、とか聞かれるのなら解るのだけれど。

「……失礼。レディーに名前を尋ねる時には自分から名乗るべきだね」

 彼はさっきの男の人と違って怒り出す様子はなかった。落ち着いた雰囲気のまま軽く私に向かって会釈をする。

「私の名前はルノ・オースティンという。貴女は名乗りたくなければ名乗らなくて構わない。

 茶髪の口の悪い男に連れてこられたのだろう?」

 茶髪、とオウム返しに呟く。暗いせいであの人の髪の色なんて分からなかった。口が悪いのは確かだったから、たぶんルノさんというこの人が言っているのは私をさらってきたあの男の人のことなんだろう。

 そう考えていると、ルノさんはドアの前にへたりこんでいる私の横を通り部屋の奥に移動する。暗い中を手探りで何か探しているらしい。ぼんやり見つめていると、シュッと音がして灯りがともった。ランプに火をつけたのだ。部屋の中が温かい光で照らされ、その中にルノさんの顔が浮かび上がる。20代後半くらいの端正な顔立ちの青年だった。色素の薄そうな髪には癖がなく長めの前髪が額にかかっている。その瞳には何の感情も浮かんでいないように見えたが、あまり恐ろしいとは感じなかった。

 ルノさんは部屋の隅にあった古びた椅子に腰掛ける。

「貴女に危害を加える気はない。だから安心してほしい」

「……」

「今から貴女を安全な場所に移す」

「あ、あの」

「何だ?」

「私、マスターのところに帰りたいです」

 さっきの人よりはずっと話が通じそうなので、私はどうせ駄目だろうと思いながらもそう言った。ルノさんは怒り出すことはなかったが、ランプの薄暗い光の中でも顔が強張ったのが感じられる。

「ご、ごめんなさいっ」

「いや……」

 なんだか分からないが私は謝ってしまっていた。ルノさんに現れた感情の変化はそれだけで、謝った私に返事をするその声はもう淡白なものに戻っている。あの男の人も怖かったけれど、ルノさんも違う意味でどこか怖い。どちらにしろ逆らわない方がいいとなんとなく思った。

「マスターということは、貴女はマリオネットで間違いないな。格好からすると、アリスか?」

 私が黙ってこくりと頷くと、ルノさんも無表情のまま黙り込んでしまう。


 今ならドアも鍵が開いているだろうが、まさかルノさんのいる目の前で逃げ出すわけにはいかない。建物からは出られてもすぐに追いつかれてしまうだろう。そうなったら何をされるか分からない。なにしろルノさんはマスターを殺そうとしたあの男の人の仲間なのだ。……でも、今を逃せばもう逃げられないかもしれない。どこか別の場所へ連れて行かれるみたいだし、そうなったら逃げられたとしてもマスターを探すことが難しくなる。

 ついさっきも逃げ出す決心をしたんだから、もう一回勇気を出せばいい。それだけよ。そう自分に言い聞かせて腰を上げようとした瞬間、背後でがたんと大きな物音がしてドアが勢いよく開いた。

「!?」

「ルノ! てめぇ何考えてんだ!?」

 驚いて振り向いた私の目に飛び込んできたのは私をここに連れてきたあの男の人だった。またひどく怒っているようだが、その怒りの矛先は私ではなくルノさんに向いているらしい。

「何でここにいるんだよ! 人がどれだけ探し回ったと思ってんだ!!」

「騒がしい。近所迷惑だ」

「こんなところに迷惑こうむるような奴はいねーよ!!」

「アリスがいるだろう」

「こいつは別にいいだろ!」

「レディーを指さすな」

「……っ、悪かったなマナーがなってなくて!」

 怒鳴り散らす男の人に対して、ルノさんはあくまで冷静に、冷淡に対応する。あまりにも鮮やかにすぱすぱと切って捨てられるため男の人の勢いもだんだんとそがれていった。仕舞にはもごもごと口ごもったかと思うと、あきらめたようにため息をつく。そして両側で繰り返される舌戦をぽかんとして聞いていた私をちらりと見て、今度は落ち着いた低い声でルノさんに話しかけた。

「……こいつだよ、アリスのマリオネットは」

「分かっている」

 ルノさんは頷いて立ち上がり、私とも男の人とも目を合わせようとせずにドアの方へ向かう。そのまま出て行こうとするルノさんの腕を慌てた男の人が乱暴に掴みひきとめようとするが、その腕は振り払われた。

「ちょ、ルノ! どこ行くんだよ!」

「……任せた」

「任せたって、俺一人でどうしろって言うんだよ!! っおい!!」

 叫ぶ男の人をよそに、ルノさんは建物から出て行き、


 そして一瞬で姿を消した。


「えっ?」

 あまりに突然のできごとだったので私は思わず声を漏らしてしまう。だが男の人は驚いた様子もなくただため息をついてぼやいた。

「あーもう、何をそんなに怒ってるんだか……怒ってんのは俺の方だっての!

 あんた一体何やったんだ? あいつを怒らせるようなことしたんだろ」

「え……」

 男の人はドアを閉めながら、呆れ顔をこちらに向けた。ランプの光に照らされたその顔は意外にもまだ若く、10代後半の少年と青年の間という印象を受ける。短髪(ルノさんによると茶髪らしい)の頭に布を巻いていて、はみ出した髪が軽くはねていた。

「え、じゃねえよ。あいつが怒るなんてよっぽどのことだぜ? 嫌味は死ぬほど言ってくるがな」

「怒る……」

 少し考えて、「マスターのところに帰りたい」と言った途端にルノさんがおかしくなったことを思い出す。そのことを告げると、男の人はげんなりとした表情になった。ランプの置かれた小さなテーブルに寄りかかるようにしてはああ、と深くため息をつく。

「あんた、あいつに対して『マスター』って単語は絶対使うな」

「?」

「いいから使うんじゃねえ! でないと俺の寿命が縮むんだよっ」

「は、はいっ」

 男の人は妙に弱々しい声で命令してきたかと思うと、また声を荒げて私を睨んできた。やっぱり、怖い人だ。私は反射的に返事してしまっていた。マスターのことをマスターって呼んじゃ駄目なら、どう呼べばいいんだろう? そんなことを考える私の横で、男の人は右手で額を押さえてよく分からないことをぶつぶつ呟いていた。

「なんでよりによってこんな時にあんたがあの野郎の地雷を踏むんだ……!!

 ただでさえ回収の対象が増えまくってるってのに、って、あっ」

 男の人がぱっと顔を上げて、私もつられて彼を見てしまう。

「こんなことしてる場合じゃないんだ、ほらあんた、行くぞ」

 彼はそう言うと、私の返事も待たずに私の腕を掴んで引っ張り、無理矢理に立たせる。逆らうのは怖かったし、そもそも男性の力に叶うわけもなく私はおとなしく彼のなすがままに動いた。


 人間の手によっていいように操られるのには、慣れている。でもそう考えると、せっかく人間の体になったのに、私は自分では何もすることができないままなんだ。危険な人から身を守ることもできない。マスターを探すこともできない。抵抗することすらできずに、こうしておとなしくこの人に従っているだけ。


「……マスターのところに、返してくれませんか?」

 こう尋ねるのが、せめてもの抵抗だった。だが予想通り返ってきた答えは冷たいもの。

「無理だな。あんたをあのジジイから引き離すのが俺の役目なんだ」

「どうして、こんなこと、するんですか……!!」

 視界がにじむ。涙を流せる体になってからまだほとんど時間はたっていないのに、何度も何度も泣いている。今涙が頬を伝ったのは、掴まれた腕が痛いから? マスターと離れ離れになっているから? 怖い人にどこかへ連れて行かれようとしているから? それとも、全部だろうか。自分のことなのに、もう、何も分からない。

「マスターは優しい人なんです、なのにどうして、マスターのことを殺そうとするんですか!!」

 私が必死に叫ぶと、男の人はドアを開けながら吐き捨てるようにこう言った。

「あんたに言ったって、わかんねえよ」

「な」

「あんたはあのジジイがとてつもない悪人で俺はジジイの悪行を止めるために動いてるって言ったら納得するのか? しないだろ」


 当たり前だ、納得などできるわけがない。マスターが悪人だなんてとんでもない。人形劇を見に来る子供たちにも、命を持たない私たちマリオネットにも、優しいまなざしをおくるあの人が、悪人ですって? この人は一体何を考えているのだろう。


「ひと」

「もう喋るな」

 人違いなんじゃないですか、と言おうとしたが男の人は有無を言わせぬ口調でそれを遮った。

「この辺りにはまともな人間は住んでいない。

 俺から逃げて他の人間に助けを求めたところで、いいように遊ばれて殺されるか売り飛ばされるかどっちかだろうな。

 だから、それが嫌だったら黙ってついて来い」

 彼はそれきり何も話そうとはせず、乱暴に私の手をひいた。引っ張られてよろめきながら建物の外に出ると、東の空がうっすらと明るんでいる。もうすぐ夜が明けるのだ。


 真っ暗闇の心を抱えながら、私は夜明けの空の下を走り続けた。

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